多数決がすべてなのか〜 政治学と呼ばれているもの(2)
政治学として権力論と並んで重要な「学」は、政治体制論だ。政体論ともいう。古代ギリシアの頃から、人は、どういう政治体制がいいのか、歴史を紐解いたり、他の国の様子を観察してみたりしながら、さんざん論じてきた。
古代から近代にかけてのヨーロッパでは、民主政は、多数者による愚かな政治(衆愚政)になりがちだからよくない。しかし、多数者政治のほうが、少数者政治より利点がある。だから、できれば、みんなの「質」がよくなって、みんなのことを考えて政治行動をするという共和政がよい、とされることが多かった。
ここでいう共和政というのは、文字通り「共に和する」政治のこと。「イギリス共和主義」という言葉があるくらいで、君主がいない共和「制」とは、意味合いが違う。共和国であることが当たり前のアメリカで、実態はともかく、共和党という政党があるが、この党は別にずっと君主がいない政治を守っていこう、ということを目標にしているわけではない。
で、市民革命を経て、民主主義政治が近代政治では当たり前、という風潮が高まってきた。現代においては、民主主義を否定するなんて、とんでもない、という考えを持っている人も多いだろう。
僕も民主主義の「信奉者」の一人だ。ただ、一歩引いて、民主主義ってなんなの、ということも考えなくてはならない。現代政治学の政治体制論は、基本的に、民主主義民主主義っていうけど、何が民主主義なんだ、ということを論じることが中心になっている。
多数決ですべてを決めてしまえば民主主義なんだろうか。ICT技術が発達した現代、国会なんかおかないで、スマホ国民投票で全部決めてしまっていいのではないか。
いや、それでは、民主主義は衆愚政を生むのではないか。多数派の意見が「数の暴力」となって、少数者を圧迫してしまうのではないか。それを防いでいるのが国会なのではないか。
だから、エリートである国会議員に、ぜんぶ任せて、質の高い政治をしてもらうべきなのではないか。われわれは、それを監視するくらいでいいのだ。いや、そもそも「彼ら」こそがエリートではなく「衆愚」なのではないか、少なくとも今の状態では。
二大政党制で、政権を担う政党が変わるからこそ、市民の監視が行き届く民主主義が実現するのではないか。いや、それだと、2つの政党どちらにも代表されない、少数派の意見はどうなるんだろう。
そもそも、多数決が絶対正解なのか。だいたい、すべては二択なのか。三択、四択になるものではないのか。そのたび、多数決をとっていても、意見が三つや四つに分かれて、何も決まらないのではないか。
何かを決めなければならないとき、何も決められない場合、どうしたらいいのか。民主主義をやめるべきなのか。それでも民主主義を続けていく理由はあるのか。
…などなど、もちろん他の政治体制(専制政治、全体主義政治、権威主義政治など)も考えていくのだけれども、政治と民主主義の関係、民主主義のことを深く考えていくのも、政治を「学」する大きな意義なのだ。