独立就農するまで その②農業研修編
「ここでは地獄を見せるよ」と言い切った社長
なんとか大学の卒業が確定し、農業を志すも、当時は今ほど田舎の集落が外部の人間にオープンでもなく、農業を学ぼうと思っても伝手もありませんでした。当時ウェブサイトを運営している農家は非常に少なかったのですが、検索するといくつかの農家が人員や研修を募集していることを知ります。だいたいどこも一週間の住み込み研修というのをされていました。
最初に伺ったのは、長野県の優良企業です。高原野菜で有名な長野県ですが、地の利を生かした露地栽培で単一の作物を社員が一人一人農場長としてまとまった圃場を任され、社長が営業するというスタイルです。当時の農場長ひとり一人が個性的で生産者としてのプロ意識が高く畑も野菜も非常に均一で美しいものでした。会社も従業員の生活を考えしっかりと付加価値をつけて販売し、農繁期は休める日が少ないけど、冬になるとまとまった休みが2,3か月あるそうです。社長は、地元の担い手を定着させると共に、農業を盛り上げて行きたいと話していました。企業として長期的に事業を育て、地域を守っていこうとされていました。うる覚えですが、人柄も人徳がにじみ出ていたように思います。
農場長が圃場の畑案内をして下さった折、慣れない道で一般道から体勢を崩して畑の畦に足を踏み入れてしまいました。その時に、プロ意識の高い方だったんでしょう、何も知らない学生あがりの農業を志す若者に大切なことを教えてくれました。「勝手に入るなよ。畑は誰かが管理しているものだから、お前のものじゃない。畑に出入りするときはちゃんと断ってから入るようにしなさい。」プロの生産者になるのに大前提のことを教えて頂いたのだと思います。これは、今でも意識しています。
とても大切なことを教えて頂いたと同時に、ここでは先輩農場長たちが築き上げてきたその価値観の外では生きずらいことも認識しました。管理している農家の気持ちを考えたら当然大切にすべきことですが、深く考えないと畑が誰のものかという認識になってしまいます。
自分が管理していたとしても畑は地球のものであり、誰かと自由に共有するものとして考える農家が居たとしても良いのではないかと思いました。人間社会を中心に考えると、人を統率し社会人として常識を身に着けていくことが重要なことです。しかし、経済を中心に人間を中心に構築されてきたシステムで生きているからこそ、自然な在り方を追求したいと思ったのです。自分の中で、農場長の話や価値観は非常によく理解できると同時に、その固定観念を無くして「0」から世界を捉えなおしていきたいという思いが強くなりました。
2件目は、栃木県の無農薬・無化学肥料栽培で多品目の野菜を生産・販売している、こちらも会社でした。ただ体質は長野県の企業とは違っていて、作付け・収穫・出荷をメインとする約10~20人弱の女性婦人グループが労働力として定着しており、主に男性社員は入社するも定着せず独立するか別の会社へ行くまでのひと時の研修生として働いていました。ハウスの管理、草刈り、マルチの片づけ、ジャガイモなどの一気に収穫できる野菜の収穫、肥料まきと農家直送という東京の契約店舗への直接配送など、業務は多岐に渡り落ち着いている雰囲気はなく、常に動き続けています。また社長がお客様も含めた直接の交流を非常に大切にしており、契約している100件以上のレストランの料理人やスタッフがそれぞれ毎週のように畑に手伝いに来ては飲み会をして帰る日々です。
一週間でしたが、正直社員さんたちについて行くのがやっとでした。冬の時期で業務としては落ち着いていると言っていましたが、トラクターや草刈り機などの修理から害虫の虫取りなどやったことのないことばかりです。冬でも5時くらいから起きて、朝ご飯を食べる暇もなく畑へ直行、そのまま夜更けるまで作業をして帰ってきたら、たらふくビールが待っています。倒れるように布団に入ったらすぐ朝5時が来ます。何日目かのある朝社長に叩き起こされます。社員の一人が夜中に逃げた、と。
この一週間研修を終えて、社長はもう来ないと思ったのでしょう。とどめを刺すかのようにこう言います。「自然相手の仕事するってこんなもんだ。こんだけやっても食っていけるのがやっと。夜逃げする奴も多いし、まぁここでは地獄見せるから」と。
誇らしげに、しかもさらに「地獄を見せる」と言う。固定観念が揺るがされるのを感じ、自分の知らない世界が広がっていると思いました。農業という厳しい世界に入ろうとしているのに、自分はその厳しさも分からない。自分の仕事にしていけるのかここで試してみようと思ったのです。
社長は、この研修に入った初日、初めて連れて行った畑で「畑に入らせて頂いていいですか?」と自分が確認すると、トロいとでも言いたげに無視し、作業の説明を始める人でした。
生き残れるかサバイバル体験が始まる
卒業と同時に車の免許を取得し、栃木県へ。K農園へお世話になります。K農園は当時、多品目栽培野菜農家。畑だけで、7haあり、別に山を持っていて、そこで養鶏の準備を始めていました。契約店舗は主に東京の飲食店で、当時150件ほどあったと思います。会社で2トンの冷蔵車を保有し、週3回夜中走り回って卸先に納品していました。種をまき、育て、収穫し、出荷し、自分たちで届ける。現在、竹岡農園も直送事業をしていますが、これはK農園の影響が大きいです。
4月の農繁期から行ったこともあり、冬よりもずっと殺伐として業務に追われていたと思います。社長自体が体育会系で命かけて必死にやろう!というようなノリでした。
休みは当然ありません。しっかり寝れると良い方で、記憶にあるのは夜中まで畑で草引きとかして帰ったらビールを飲んで、潰れかけたら解放してもらい、「あと2時間は寝れる…」とか、「今日は4時間寝れるかな」とかの日々が記憶に残っています。3ヵ月経ったあたりから、東京への直送便を任されたので、朝から農作業をして、夕方に仮眠、夜8時くらいから次の日の昼まで東京中を配送し続けていました。
恐いのは、寝ずに直送便を無事に終えて農園に帰ってくると、畑に直行します。畑で寝落ちしてもケガしないから、とさわやかに笑いながら言っている社長を今でも覚えています(笑)そんなこんなで24時間、36時間労働であった日は珍しくもありませんでした。
まためちゃくちゃなのは労働時間だけではありません。内容も常識を超えていました。当時、K農園では鶏糞を肥料の一つとして使用していましたが、積載量350kgの軽トラに1トン以上山積みにして、社長命令で公道を走っていました。田舎道が非常に距離があるので、少しでも時間を短縮するため、1トン以上積まないと怒られます。
入っていく農道は崩れかけの場所や半端ないぬかるみも多く、自分が居た期間で軽トラを預けられた研修生はだいたい道から川や畑に横転し、そのたびに社長がトラクターやユンボを持ってきてひっぱりあげていました。
畑の場所さえよくわからない入って1週間くらいの自分が、来られたお客様の畑の案内をさせて頂き、色々と質問されながら野菜についてというより人との接し方を覚えていきました。ちなみに、社長から野菜や土づくりについて教えて頂いたことはありません。自分で知識や技術は盗みに来いというスタンスでした。
そして、よく怒られました。与えられた業務で褒められたことは無かったと思います。足りないところを指摘して頂き、言葉責めも半端なかったですが、手や足、さらには持っていたハンマーなどで叩かれたこともあります。そうです。完全に犯罪ですね。よく死ななかったと思います。
研修生の大半はこの精神的な重圧によって夜逃げ・昼逃げをしていきました。それまで300人くらい来た研修生の大半は1週間から1か月で逃げていく理由もよく分かります。
研修4か月目で過労で事故
教えて頂くことも少なく、見様見真似で与えられたミッションを必死にこなしていく。そうしていく中で、初めてのことに対する不安や戸惑いを感じなくなってきました。やり方があってるか間違ってるかを聞いても、結果が伴わなければ拳が飛んできます。その時に、「社長がこう言った…」と言おうものなら、馬乗りで拳パターンです。
なので、何かこのままではまずいと思ったら、自分で調べて、自分で修正して結果が最悪の事態にならないように考えるしかありません。そうして、文字通り叩きあげられていきました。たった半年ですが、この研修の威力はすさまじかったです。丹波で独立して、農家としては普通やらないだろうという初めてのことに突き進めたのは、K農園の研修でやったことないことをやるのが当たり前だったからです。
そんな日々も3ヵ月を超えるあたりから体力的に限界を迎え始めます。社長には「気合いが足んねーんだよ」と叱られていたので、自分の鍛え方が甘かったのかもしれませんが、いずれにせよ寝れない日々、何をやっても怒鳴られる日々で緊張感の糸が切れ始めます。
4ヵ月経った頃、直送便にも慣れてきて畑の業務がさらに増えてきた頃、暑くてぼーっとして野菜の集荷の運転中に意識が飛びます。覚えているのは、救急隊員がドアを切っている音、救急車の中で社長が「竹岡!竹岡!」と叫んでいる声でした。
命があって奇跡だったと思います。10トントラックとの正面衝突でした。ワゴンアールで60㎞で突っ込んでいき、ぶっ飛ばされ、後続車に突き上げられ、神社の駐車場で止まりました。フロントに強く頭を打ち付け、ハンドルで右半身を複雑骨折、アバラを数本折り、骨が肺に刺さって呼吸困難となります。アバラが刺さった肺はICUでなかなか膨らまなかったそうです。
ありがたかったのは、トラック運転手はほぼ無傷、後続車の方もケガもなく、ご迷惑をおかけしましたが、保険で対応して頂けました。ワゴンアールは、たまたま先輩の車を乗っていて、きちんと任意保険をかけて頂いてたお陰です。
ICUでなんとか骨を固定し、肺を膨らませ、命を繋ぎとめて頂きました。1週間後一般病棟へ移動。死んでもおかしくない事故のケガということで、1週間は安静。誰にも、何者にも阻まれない病院での天国暮らしのことは至福の思い出です。眠るのがこんなに幸せなことなのか、と気づけたのもK農園のお陰ですね。
2週間の安静の後、少しずつでいいからと歩いたり、腕を曲げたりするリハビリが始まりました。特に右腕の複雑骨折がひどく、ボルト4本で繋がってはいるものの筋肉の付き方も事故以前とは違っていました。リハビリの先生が、後遺症が残る傷で、まだ相当痛むだろうし、リハビリを続けても腕を曲げきることが出来ないかもしれないと優しく伝えてくれた10分後に完全に腕を曲げきっていました。そして、腕を曲げているところに、たまたま社長が見舞いに来たのです。
全てを無くし丹波へ
※ここからは、苦労話というより笑い話ですので、ドラマのような展開を楽しんでお読みください。
「竹岡、労災保険でお前は休んでても給与はもらえる。だけど、社宅のみんなは必死で毎日頑張ってるんだ」
とのお言葉をもらって、「社長、半身動かない僕で出来ることはやらせてください」と応えました。
リハビリが異常な速さで進んだので、迷惑かかるし病院は長くいるところでは無いと思い、即退院。
退院後は言葉通り、農園業務に戻りました。右半身の負傷だったので、左手、左足のみでの業務で役に立つのかなと心配する間もなく、東京の契約店舗へ2トントラックを運転して直送業務へ完全復帰です。
左手でハンドルを握り、ギア変速を行う。もちろん、アクセル・ブレーキ・クラッチも左足のみです。少しでも身体を動かすと、折れたアバラに響きます。病み上がりの夜中での配送業務でしたが、人間死ぬ気でやれば何でもやってしまえるものだなと心底思いました。
直送での業務が2週間ほどで安定してくると、直送後朝帰ってきて、山入りします。ツルハシを持って左手左足で天然の山芋掘り。畑作業と違って、動きまくることはないですが、土が硬いため全身をつかって掘らないと150cm程ある山芋が掘れません。笑
そんな激務をやっていると、1ヵ月検診、2ヵ月検診と病院へ行く度、レントゲンを見て先生が首を傾げます。「竹岡さん、これは動かしてるよね…このままだと開いた骨が引っ付かず肉がまいてしまう」と。
骨折した骨は自然治癒で引っ付いて骨が再生していくため安静にしてないといけません。出来るだけ右半身に負担をかけないよう身体を使っていたつもりでしたが、まぁ山で山芋掘ってたらそりゃ使いますよね…治療中の身で半身が動かず、業務に入っても迷惑をかけるので自分がこのまま研修を続けても申し訳ないという気持ちと、古い考え方なのかもしれないですが、一度お世話になった以上骨を埋める覚悟で区切りのいいところまでやりきるんだという気持ちの中で揺れていたとき、社長の奥さんから呼び出されます。
奥さんは、無茶苦茶で勢いのすごい社長の完全バックアップをしている方で、血圧240でも普通に働いていたスーパーウーマンです。この方も田舎のすごさを感じさせてくれた大きな存在の一人です。
「お前が農業やっていきたい気持ちは分かった。でも、農業は自分で種を蒔いて、お客様に届けるところまで全てを自分でやって一人前なんだ。ここでは、全ては経験できない。畑の片づけや、収穫、直送など部分部分は任せられるけど全部は出来ない。だから、本気で農業やってくなら、一から自分で始めなさい」
当時の自分の気持ちを納得させるのに十分すぎる言葉でした。このまま研修で居続けるのは会社にとって迷惑だとも言わず、このままだと怪我が治らないから研修をやめて療養しろとも言わず、百姓として一人前になるために自分の畑で自分で一からやれ、という言葉は、当時の自分を救ってくれました。その後、社長に自分でやっていく旨を伝えて研修修了となります。
社長からは最後に、「野菜農家は、10年続けてようやく一人前だから」と言葉をもらいます。このエピソードを書いているのは、自分で種を蒔いて育て、お客様にお届けし始めてから10年経ったので、原点回帰のつもりで文章にまとめました。10年で一人前になったのかどうかまだ分かりません。まだまだすぎるというのが正直なところです。続ければ続けるほど、農業は奥が深いです。
そんなこんなでアバラ以外の右腕、右足の骨がひっつかないまま地元兵庫に帰ってきてそのまま丹波へ。兵庫に帰るなら、農業のきっかけをくれた笛路へ戻ろうと思っていたので、そのままTさん宅へ行き直談判で畑を借りに行きました。
研修中、お給料はもらっていたのですが、治療費や最低限の農機具を購入すると貯金も底をつき、まずはアルバイトを探します。しかし、実はこのとき先の事故により車の免許が失効していたのです。