「ガザ・モノローグ 2010」 その2

2.アフマド・タハさん 1996年生まれ アル・ダラジ

僕は、これまでの人生の中で、ガザは世界でいちばん大きくて、いちばん美しい都市だと思っていました。でも、前にお父さんと一緒にヤッファに行った時、その考えは180度変わりました。それからというもの、ガザは針の穴ほどの小さな街で、美しくもなく、どんどん小さく、かつ汚くなってきていると考えるようになりました。ここでは誰も息をすることができず、さらに旅行することも許されていません。

ガザを歩く時はいつでも息が詰まります。ヤッファで見た絵を忘れることができません。僕はどこにいるんだろう、と自分自身に問いかけます。僕たちは世界のほかの場所から遠く離れた場所にいます。自分の名前を砂浜の上に書いたところで、やってくる波がそれを消し去っていくのです。

戦争が始まる前は、僕は電気技師になりたいと思っていました。でも、戦争が始まって、学校に行くのが嫌になりました。人生を賭けたところで何者かになれるわけでもないし、ましてやこれからそうなることもない。そんな自分に何を学べと? この街も一緒です。僕はゴミ溜めの中に一輪の綺麗な花を見つけようとします。

空爆が始まった時、僕たちの通う学校を除くすべての学校が休校になりました。校長は僕らを解放しなかったのです。生徒たちは泣き叫び、校庭に駆け出しました。不可解なのは、僕は通行省の近く、ザイトウナの学校に通っているのですが、空爆が最初に襲ったのはまさにその通行省だったのです。最初の爆撃があった時、ミサイルが学校で一番大きな木まで飛んできて、その木をサトウキビのように真っ二つに切り落としました。それを見るや否や、生徒も、先生も、校長も、誰一人として学校に留まろうとしませんでした。命のために逃げたのです。

その時までに自分が目撃した中で唯一の殉教者は、その木だったと思います。しかし、家に帰ると、すでに4人の殉教者がいました。それはまるで、僕が別れを告げるのを待っていたかのようでした。その後さらに3人の殉教者がやってきました。それは先ほどの4人と同じ家族でした……。彼らを埋葬して帰ってくると、自宅から二軒先の家が軍の空爆によって、家が地図から消し去られていました。全員死にました。その中で一番小さな女の子の死に、僕の心は痛みました。

僕は、ガザにいるすべての人々のうち、戦争の標的になっているのは自分だけだと感じました。殉教者を見ない日はありませんでした。

シファア病院で僕は決して忘れられない光景を見ました。数百もの死体が重なり合い、肉と、血と、骨が互いに溶け合っていました。男か女か、子どもかどうかさえも見分けることができません。肉の重なったベッドのそばに多くの人たちがいて、そのどれが自分にとって親しい男性、あるいは女性かもわからずに、泣き叫んでいました。

その夜は病院から帰ってきても、恐怖から朝まで一睡もできませんでした。眠れないのはその日だけかと思っていましたが、泣き叫ぶ人たちが脳裏に浮かぶせいで、いまだに眠れずにいます。


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