「ガザ・モノローグ2010」その13

13.リーマ・エル・サディさん 1995年生まれ アッシュシェイカーラドワン

アラブ首長国連邦からガザへ戻った時、私は9歳だった。私がガザを訪れたのは、それが初めて。道路を車で走り、その窓から通りを眺める。この街の全てが好きじゃなかった。信号待ちをしていると、車の周りに子どもたちが来て物乞いをしたり、ガムやビスケットを売りつけたりしてくる。自分のことが嫌になったし、UAEに帰りたくて仕方なかった。

でも私はいま、ガザに住んでいる。たとえパリかガザどちらに住むかと聞かれても、私はガザを選ぶかな。ここに満ちている愛は全世界にとって十分。その愛は人々の心の中にあるもので、決して建物や景色の中にあるものじゃない。

ママはUAEにいた時、いつもガザの話をしてくれた。ガザを見る前もガザが好きだったけど、実際に一度住んでからはもっと好きになった。ママが見てこなかったディティールがそこにはあった。でも本当に残念……。ここが安全でさえあれば、世界で一番美しい街になれるのに。

戦争中、タクワモスクとノワールモスクが空爆に遭い、そのあとアブ・エル・カレの家が爆撃された。アブ・エル・カレの家が私たちにとって重要だった。それは私たちの家の近所にあって、イスラエル軍の秘密警察は空爆を仄めかしていたから。1階なら安全で、被害を免れるという噂があった。そこならアブ・エル・カレが爆撃されても大丈夫だろうと。

私たちは1階に移って、アブ・エル・カレが軍によって爆撃されるのを待った。でも代わりに、ノワールモスクが爆撃された。窓やら、石やらが家の中まで飛んできた。あらゆるドアが頭に落ちてきて、私も大怪我を負った。叫び声が響いていて、あたりはしっちゃかめっちゃかだった。

次の日家族会議をして、上の方の階に戻ることを決めた。そうして最上階に移った。でも今回は、軍はタクワモスクを爆撃した。ガラスの破片や石ころは最上階に降りかかった……。安全を求めて、私たちは下の方の階にまた移った。そうしてアブ・エル・カレが爆撃されるのを待っていたら、その夜に爆撃が行われた。

軍は1発目のミサイルを投じて、すぐ2発目も投じたけど、2発目は爆発しなかった。もう一発が投じられて、2発目に当たってたら、このあたり一帯は灰燼に帰してたと思う。そうしたら人々は「ここはアブ・エル・カレの近所だった場所だよ」と言っていただろう。

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