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安心と不安のバランスと距離/食とまなびのブログ

自宅は鎌倉の山の中にある。
周辺の道は市道ではなく私道で、一部階段なので徒歩では通り抜けることが出来るが、車では出来ず突き当たることになる。
山で車が抜けられないとなると、当然すれ違う人はほぼ近所の人となる。
ちょっとした陸の孤島(山なのに)となっている。

どの家にどなたがいて、どんな顔をしてるのかも年月と共に把握するようになってくる。
さらに、数年前には持ち回りの自治会役員を担当したので人と家と名前の把握はかなり進んだ。
逆にいえば、把握もされたということ。

うちの自治会は52世帯で構成されている。52世帯ということは、マンションでいうと、一階あたり5世帯入っていれば10階建てということである。

東京は世知辛い、孤独死なんてことも言われるのに対し、うちの近所はまるで昔の村社会のよう。
今でもかなりの田舎に行けばそうなのだろうが。

なぜ、隣に住んでいる人の顔もわからなくなるのか?

マンションや建て売り住宅もだが、全く同じ外観が要因の1つではないかと考える。

もしくは、距離も影響してるかもしれない。
近すぎると人は見ないようにしようとする。
窓を開けると隣の人の家の窓がある状況であれば、カーテンを開ける頻度は著しく下がる。
お隣がベランダに出て洗濯を始める音が聞こえたら、自分は少し時間をずらして洗濯をする。
見ないようにしているということ。

そりゃ、人間関係は希薄にもなるのが当然。

うちのご近所は家が一つ一つ違う。
ここの家はなんて人だろう、どんな人だろう、サーフィンが趣味なのかな、園芸が好きなんだろうな、お金持ってそうだな、きれい好きなんだな、などなど人となりが感じられる。
家に個性が出るということ。

この場合、人を知る前に家を知る。
人と家が結び付いていない状態で家だけを見るという流れが一般的になるので、家に個性を感じることになる。
そして、家の個性と個人が結び付いたとき、強く膝を打つことが多い。
『あー、あの家の人ね!』となるわけだ。

要するに、ご近所付き合いをする上で家の個性というものは非常に重要な要素を担っているのではないかと思うのです。

それがマンションでは、個性がほとんど外観に出てこないということになる。
せいぜい表札くらいか。

すると、家と人が結び付きづらいということになる。

どうだろう。
一部だけでも家主がデザインするマンションを作ったら。
例えば、玄関のドアだけは家主それぞれがデザインする。マンションの購入価格にその分を含んでおけば全く問題ない。
「あー、あのフランス国旗の色をしたドアの方ね!」などとなるわけである。

孤独死は圧倒的に減ると思うし、交流は自然発生する可能性が上がると思う。

なにより面白いと思うんだけどなぁ。

感謝します。

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工藤昌幸
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