これからの《〈〝“【{地域芸術祭}】”〟〉》について
茨城県常陸太田市。この土地では、日本で最も古い約5億年前の地層が見つかっており、一番古いもので、約5億3300万年前にもなる。これは、ゴンドワナ大陸時代の極東部の火山地帯に位置していて、今のロシアの極東部にも同じ地層を見ることができる。そこから、海底の移動とともに運ばれた堆積物と陸から運ばれた岩石などがはり付き、地底の奥深くで圧力と高温で固められ、日本列島の土台になったと考えられていて、それは、つまり、ここは日本列島の始まりだった可能性がある。また、奈良時代初期につくられた常陸国風土記によると、このあたり一帯を「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊かに暮らし、まるで常世の国(理想郷)のようだ」と記している。
そんなこの地で行われた3つの芸術の展覧会を取り上げよう。1991年クリストとジャンヌ=クロード『アンブレラ 日本=アメリカ合衆国1984-91』。2016年飴屋法水『何処からの手紙』。2018年パープルーム『パープルーム大学附属ミュージアムのヘルスケア』である。
1.クリストとジャンヌ=クロード『アンブレラ 日本=アメリカ合衆国1984-91』
クリストとジャンヌ=クロード。クリストは、ブルガリア出身、本名はクリスト・ヴラディミロフ・ヤヴァシェフ。ジャンヌ=クロードは、フランス出身で彼らは夫婦である。妻のジャンヌ=クロードは2009年に亡くなっているが、同名での活動を続けている。彼らのプロジェクトは膨大な時間と費用をかけて行われ、ジャンヌ=クロードが生前に関わっていたプロジェクトの中にも現在進行中のものもあり、例えば、1977年から取り組んでいるアブダビ砂漠に41万個のドラム缶を積み上げるプロジェクト『マスタバ』のプロトタイプ『ロンドン マスタバ』が記憶に新しい。
彼らのプロジェクトは、公的資金は使用されず、スポンサーシップも受け入れない。同プロジェクトのために制作されたドローイングなどの作品を販売する事だけで、資金を調達する。プロジェクトの準備段階、書類作成だけでも数億かかるプロジェクトも存在する。しかし、作品自体は非常に短い期間だけ展示され、恒久的に展示されるプロジェクトは存在しない。これはどういう事なのか。1991年に行われた『アンブレラ 日本=アメリカ合衆国1984-91』にて考えを深めたいところだが、非常に悔やまれることに、当時10歳で隣町に暮らしていた私は、それを見ていない(最近では人生の大きな損失とさえ思っている)。そこで、2016年水戸芸術館でのドキュメンテーション展『アンブレラ 日本=アメリカ合衆国1984-91』を参照に、このプロジェクトを考察を進めたい。
この作品は、日本の常陸太田に1340本の青い傘、アメリカのカルフォルニア州南部に1760本の黄色い傘、大きさが、高さ6m正八角形の対角線が8m50cmの傘を、大地に設置した作品である。当時の経済大国1位と2位の、地形の違いや人と土地の関わりの違いを、「壁のない家」としての「傘」で表現できるとクリストらは考え、常陸太田では、行政と地元の地権者459人から許可を取り設置された。家において壁は、パブリックとプライベートの境界線であり、同時に分断をするものでもある。それが取り除かれた家を、地権者たちと交渉のために6000杯のお茶を飲み(本人談)、ようやく設置を可能にした。傘が開いた展示期間は18日間。しかし、その展示期間中に台風の影響で、数日間傘は閉じる事となる。
概要を整理してみよう。まず、壁がないことで、パブリック/プライベートを曖昧にした家をつくる。そのためには、膨大な人々との対話が発生する。そして、できたものは、モロに自然現象の影響を受ける。ここには、私たちが「面倒なもの」として、できる限り日々回避している出来事が表象する。また、作品展示期間が非常に短いことを、日本人であれば「刹那的な美」「儚さの美」などと形式的に捉えてしまい、その目の前の作品「のみ」を鑑賞体験としてしまう。しかし、その展示行為は全体のほんの一部であり、プロジェクト初期のドローイングを制作している時期の西暦も、 作品タイトルに含まれていることに表れている。
彼らの初期プロジェクトで、一番最初に公共に介入し実現まで至った作品に、1968年の『包まれたベルン市美術館』というものがある。建築物全体を布で包んでしまう、後々彼らの代表的な手法になる1つで、それまでにいくつかの美術館と交渉したのだが、実現までには至らなかった(ニューヨーク近代美術館も含まれる)。しかし、当時のベルン市美術館館長ハラルドゼーマンの賛同協力を得て、初めて建築物を包む事に成功する。クリストは言う。「アイディアを出すということはさほど大変ではない。難しいのは、それを実現することなのだ。」「もはや世界の全ての土地は、誰かの所有物であり、その許可を得ることが一番の難題である。」プロジェクトの一部としての交渉、すなわち「面倒なもの」に、彼らは足を踏み入れていく。そこから賛同者も現れる事もあれば、マスタバの様に未だに交渉が続いているもの、そして半数以上は実現しないプロジェクトになっていった。様々な交渉の中、多くの土地の所有者は「面倒なもの」として彼らを見たことだろう。もう一度、クリストの言葉を借りる。「相手が政府の役人でも住民でも、人を説得するには自分で話をするしかないと思ってるのです。自分たちの芸術を理解してもらうためには交渉を代理人に任せるのではなく、実際に現地へ足を運び自分自身の言葉で説明するということがいちばん大事なんだ、と。そして、それも芸術の一部だと思っている。」
『アンブレラ 日本=アメリカ合衆国1984-91』は、1340本+1760本の巨大な傘を開かせるだけ作品であり、その物自体には難解さのかけらも無い。プロジェクトは誰かが、所有するでもなく、買うでもなく、費用対効果があるわけでもない。しいて言えば、傘の下でお茶を飲むくらいだ。そのために、「アーティスト」「土地の利権者」「行政」「傘を製作する者」「傘を立てる者」など、それぞれが違う意見を言いながら、実現した。どこかのタイミングで、彼ら彼女らの間で「面倒なもの」が反転し、傘は開いた。これは何なのか。ぼんやり考えながら、次は、ここから25年後の展覧会を見ていこうと思う。
2. 飴屋法水 『何処からの手紙』
2016年。常陸太田市を含む6つの市町で「茨城県北芸術祭」が行われた。飴屋法水『何処からの手紙』は、公式プログラムでありながら、ガイドマップには展示会場が記載されていない。この場所を知るには、指定された会場の最寄りの4つの郵便局の局長宛てに、観客が訪れたい所を選び、手紙を出す必要がある。すると、数日後、郵便局から封筒が届き、会場への地図、絵葉書、そこを訪れるためのプロローグのようなテキストが同封されている。「手紙を出す」と言う手間がなければ、ここにはたどり着けない。私たちは、飴屋の演出が施されたフィクション/ノンフィクションが同居したテキストを読み、フィクション/ノンフィクションが同居した会場の中に入っていく。本稿で取り上げるのは、その中でも営業を終了した小高い丘にある旅館で行われた『イヤホーンの中のプロスト』だ。
『常陸国風土記』では、この丘についても書いていて、「古老の曰へらく、郡より南、近く小さき丘あり。体、鯨鯢に似たり。倭武の天皇、よりて久慈と名づけたまひき」とあり、今は鯨ヶ丘と言われている。その丘の地形を利用して旅館は建てられており、入り口が3階にあって、建物は4階建て。客室部分と経営者の居住部分が一体化した建築に、私たちは訪問する。会場に順路はなく、ほぼ全ての建物の内部を動き回る事ができる。飴屋による演出が前面に出てくる事はなく、それと判るものは、経営者家族の子供の頃の写真や、中学の頃に描かれた絵、短いテキストがところどころに貼られているくらいだ。旅館の客室は、整理されており、いつでも泊まれそうで、丘の上だけに眺望は良い。封筒に同封されている手紙には、
”夜になれば、常陸太田の夜景がきれいだ。かつては、一面の田んぼだった。田んぼの真ん中で花火大会が行われ、ホタルが飛び交い、それを見ながら酒を飲む”
とあり、なるほどその景色を窓の外に想像してみたくなる。眺めの良い部屋の多くが客室に当てられているが、そのいくつかの部屋は、東日本大震災の影響で傾いている。先に進もう。入り口側に戻り、丘の内側に面しているいくつかの部屋に入る。居住部になっているこの数部屋には、父親を早くに亡くした、母、息子と娘のモノが、その時間の経過を知らせてくれる。特に息子の部屋は印象的で、車好きが高じてTVのレース映像を録画した約4000本のVHSが、壁面を覆う。28歳の時に、自らもフォーミュラカーレーサーになるのだが、自宅近くで交通事故を起こし、半身不随になる。4年間の入院を経て、旅館の営業が終了するまで、旅館の受付や電話番をしていたそうだ。そして、彼ら彼女らは今も別々の場所で生活している。ここまで、私たちは、この展覧会場をツアーのように辿ってきた。少し耳をすませば、厨房の方から1滴ポタリまたポタリ、と水の落ちる音が聞こえてくるかとしれない。
地域芸術祭はある一定期間、芸術作品がその地域に展示され、それが観客の動員を呼ぶものとされ、経済が生まれ、「地方活性化」のカンフル剤として全国で行われている。しかし、いずれの祭にも終わりがある。祭のあとのその後の地域に、多くの芸術祭運営は関与せず、次の祭の企画を始める。これが越後妻有トリエンナーレ以降のいわゆる「地域芸術祭」の形式消費で、テンプレート化され、そのほとんどがテンプレートの内側のピースを埋める事にしか注視しておらず、「地域動員のための芸術」としか考えられていない。このことを本稿では「テンプレ祭」と呼ぼう。私たちの日常とは、本質的に祭と祭のあいだに在るものだ。また、祭の最中のように思えても、そこには、また別の祭のあいだが内在している。
この展覧会場は、パブリック(旅館部)とプライベート(居住部)が壁一枚で分断している事が象徴的な建築になっていて、私たちは、地域芸術祭という祭に興じて、壁のあっちとこっちの間を自由に足を踏み入れ、全く違う物語が流れた場所を行き来した。しかし、この場所自体は、飴屋の演出により、祭と祭のあいだのように静寂していた。その時間しか存在しないようにさえ思える。飴屋は「祭の最中」から、「祭と祭のあいだ」に私たちの想像力を書き換えた。水の滴りが、今でもあの静寂を鮮やかにした事を思い出す。手紙の中のテキストはこう締めくくられる。
”このような人生を送っている人は、どこにも、どの町にも、それこそ無数にいるっていうことです。数える必要はありません。それは、無数、なのですから。
よかったら、息子の集めた映像と、中学の頃、娘が描いた絵を見にきてくださいね。
無数の中の、わずかのひとつが、ここにあるという、それだけのことですけれど。”
私は、2016年に体験した『何処からの手紙』はいったい何だったのだろうと、考えて生きている。言い方を変えると、生涯に何度もなかろう芸術体験をしたことを白状する。それは同時に、芸術との幸福な出会いを意味している訳だが、3年の間、考えても言語化出来ないものが、この場所にはたくさんあるように思える。飴屋氏と直接話す機会があり、これは私の作品について、延いては私自身についての彼からの問いで、「偶然と必然を取り違えていないか、小さな偶然の集まりの中の大きな必然があり、その逆の然り」という話をしたのだが、その話と上記のテキストとの対応関係に、飴屋氏の根幹を覗き見した気がしている。それは何か。
飴屋法水は、世界を容れ物のように捉えながら、その輪郭に手を入れていく作家だ。身体が容れ物のようにして、違う人格を宿らせる役者の話はよく耳にするが、飴屋は、さらに容れ物の輪郭まで射程を広げる。この『イヤホーンの中のプロスト』の場合、テンプレ祭のプログラム「内」で行われ、 さらに建物が容れ物であり、中身(内部)に生き物はいないが、静物たちが、昨日まで使われていたような状態で、ある。そこに観客として私たちは「生き物」役として入っていく。別の「生き物」役の観客とすれ違う。彼らもまた、「祭の最中」と「祭と祭のあいだ」の変換に当惑する演者として書き換えられている。他にも過去作として、光の入らない180cm四方の「容れ物」に水と塩と栄養剤など生命活動に必要最低限なモノだけ持ち込んで、24日間生活した『ア ヤ ズ /バ ング ント』、フクロウを人間と思い込ませ同棲していた過去を持つ飴屋であれば、この入れ替え可能な容器は、人間も動物も静物も等価に見ていることに気がつく。飴屋の見る世界は、無数の容れ物で溢れていて、私たちのこの身体も無数の中の一つの容れ物という事実があり、その中身は小さな偶然によって入れ替えが続く。この取り替え可能な「偶然の中身」を決して「必然の中身」と取り違えてはいけない。偶有性を保持した中身に演出を施すことを続けていくと、やがて容れ物の輪郭がうっすら見え、そこにさえ演出のようなものをする。その事が、飴屋の作品を考える時の大きな手がかりのように思える。
最後の展覧会に行こう。2年後のここから歩いて5分、「梅津会館」というところだ。
3. パープルーム 『パープルーム大学附属ミュージアムのヘルスケア』
この展覧会は、県北芸術村推進事業のプロジェクト「meets KENPOKU」の一環で2018年に行われた。「茨城県北芸術祭」の関連プログラムでもあるが、現在「茨城県北芸術祭」の次回開催は未定となっている。梅津会館という郷土資料館の全館(1階と2階)と別棟の小さな家を使用して、パープルーム梅津庸一氏がキュレーションを行った。パープルームとは、神奈川県相模原市を拠点とし、半共同生活を営み、アーティストの「共同体」を形成している集団である。1階の会場は、作家作品と郷土資料館の収蔵品がごちゃ混ぜにされてを構成しており、2階は、作家作品のみの構成になっている。参加作家は20名。たまたま梅津氏の展示解説の場に立ち会ったのだが、この企画が、地域芸術祭に対してかなりの距離をとり、地域コミュニティに対しても距離をとっている事を冒頭に表明し、同時に、作家のレゾネができた場合、地域芸術祭にコミットしてできた作品が作家の体系的に異質なものになる事を「作家の損失」と話していた事、故に作品の多くは過去作が出品されている事も説明していた。
パープルームの展示には、カラフルに彩色された壁のようなものと、テプラとフラッグに書かれているテキストが特徴的に配置されている。壁は、「パープルーム」とういう言葉の響きをより色彩イメージとして定着させる為に、テプラのテキストの内容は駄文だが、貼られているものの記号性に僅かな介入をする行為に、フラッグは、紀元前より描かれているものに忠誠を誓う、または信号を送る際の道具として使われており、その機能に乗っ取った、ステイトメント風な散文が書かれている。そして今回初めての試み(梅津談)として、パープルームに深くコミットしている作家名を、ブロック状?のものに記載し、メタ認知の為の「共同体」として置かれていた。乱暴にいえば、これらだけで地域芸術祭への応答としての展覧会は完結している。展示構成では、決してキュレーションで物語を紡ぐようなことはなく、終始、郷土資料館の収蔵品とアーティストの作品を断絶した状態で構成し、「私的」共同体の打ち出しと、ここにある「地域」共同体は、分断されていた。可能な限りの確信犯的身勝手な振る舞いで、地域芸術祭との軋轢を意図的に起こしているように見える。それは、アーティストの異物性を纏った共同体を再起動し、テンプレ祭の対立項として設定する行為だ。
梅津は、パープルームの密度に「蜂蜜」のような可能性をみているはずだ。彼のよく使う単語を引用しながら進めると、蜂蜜とは、蜜蜂が様々な蜜源植物から蜜を集め、その際に植物の【受粉】を促しながら、巣に持ち帰って貯蔵加工し、【ゲル状】にしたものだ。限定的なコミュニティで、高い栄養源になるもの、腐敗しない長期保存できるものを作る。それが彼らにとっての芸術作品なのだ。強者のみが生き残るアートワールドのゲームで、違う方法の生き残り方法を模索する。「実社会に生きているんじゃなく、まさに美術のなかでのみ生きているのです。」とは、梅津の言葉である。しかし、芸術は、実社会にこそ生きねばならないというのが私の立場だ。はたして、それは生きていると言えるのだろうか。
3つの展覧会を見てきた。論点を整理しよう。
クリストとジャンヌ=クロードは、自分たちのプロジェクトを遂行する為に、常陸太田を訪ね、書類を作成し、許可をとり、施工を依頼し、僅かな期間だけ作品を展示し、そして解体し、元の風景に戻した。その間に様々な立場の人と膨大な量の議論を行い、いつの間にか人々は「面倒なもの」の出来事に協力を始める。それは「祭」が生まれる体験の共有、と言ってもいいのかもしれない。飴屋法水は、県北芸術村推進事業からの依頼で、地域芸術祭に参加をした。彼は来た仕事は断らない(本人談)という(これも、容れ物に偶然何が入るかという飴屋の姿勢に一致する)。彼は、芸術祭でありながら、特別な会場を作らず、県北の風景を容れ物として、自らの足で展示会場を探し、事実の過去と、記憶の過去と、虚構の過去を混ぜこぜにして、何かを語り直した。そして、パープルームは、テンプレ祭の中で、地域にコミットする事を放棄し、安易なコミュニティづくりを拒絶した。
芸術は、コミュニティが出来、その文化が生まれた後、胞子のように生まれてくる。コミュニティより先に芸術が生まれてくる事は、ない。芸術の鑑賞体験が、観客に取り返しのつかない傷を負わせ、彼/彼女らは、文化に参加し、接ぎ木を行い、現在がある。
忘れてはいけないことがある。芸術の本質の1つは、ナニモノかとの対話のツールであるということだ。ナニモノとは、目の前にいる誰かだけでなく、100年後も、1000年前も、人でも、モノでも、神でも、対話可能だ。その時、私たちの眼前の風景が反転する。(私)景と(ナニモノ)景がまぜこぜになり、google earthにない風景が立ち現れる。私たちは、ナニモノとしっかり目を合わせて、対話を続けられる事が、他のどの分野にも到達できない芸術の本懐だ。
アンブレラには後日談がある。傘の設置された地域に3年後にオープンした『道の駅さとみ』は、アンブレラを模した外観で建築され、2016年の茨城県北芸術祭では、その展示エリアを外れていたが、芸術祭と関係なく勝手に地域住民たちの手により、アンブレラ回顧展が行われた。
いちアーティスト個人で行った地域芸術祭の先がけが、テンプレ祭では起こりえない事を25年後に起こしている。それは、対話を通して「面倒なもの」から「共犯関係」に書き換えたことに他ならないだろう。地域住民たちは、しっかりとナニモノを見続けてきた。そして、それは地域住民たちの無名の批評でもある。
地域芸術祭について、アーティストも運営も多くの疑問に気がついてはいるが、見ないふりをしている。日本で一番古い陸地で、常世の国と言われた地で、もう一度、地域芸術祭の可能性を見る。そこに、確かに批評性を宿した無名の人々が問う。「あなたの芸術祭は、25年後の私たちに行動を起こさせますか?」と。