見出し画像

サッカーとアートとストリート

始めに、「芸術は無限である。」と聞いたことはないだろうか。ということは置いておいて、自分はサッカーが好きである。サッカーは、世界で最も人気のあるスポーツである。大歓声を浴びるスタジアム、その中で闘志をむき出しにプレーをする選手たち、時には感動、時には批判、時に観客を魅了させる。そんなサッカーは、スタジアムの枠を超えストリートへ姿を現わす。
サッカー王国ブラジルでは、サッカーはス
トリートに進出し、いたるところでサッカーが姿を見せるのだ。ストリートで行われいるのは若者を中心にダンスとサッカーを掛け合わせたパフォーマンスがある。普段のサッカーとは違い個人として技を磨き、対人するのではなく、一つの芸術アートとしてのサッカーの姿である。
サッカーをアートとしてみるのは、全く別物であろうと思う人が多いだろう。しかし、私はここで、「芸術は無限である。」という置いておいた言葉を再度提示したい。私はこの言葉からサッカーを芸術アートとしてあると考える。この芸術というとらえ方は人それぞれである。もしあなたの机の上にパンが置いてあるとするだろう。その光景をどこがどのように芸術アートと説明できるならば、その光景は芸術アートではないだろうか。しかし、第三者から見れば、ただのパンにしか見えない。しかし、そのパンにバターナイフを刺すだけで、なにか意味があるかのように第三者はとらえるだろう。しかし、また違った人物が見れば、ただのナイフの刺さったパンにしか見えない人もいるだろう。これらから自分の中で芸術アートであろうとも、他人を他の意味のある物と見せるには、なにか工夫が必要であり、他人への訴えが必要であるのでばないだろうか。これらから、「芸術は無限である。」から「芸術は無限であると思う人には無限である。」なのではないだろうかと私は考えた。サッカーも同じように、サッカーをアートとしてとらえる人にはそれはアートであり芸術なのである。
自分は自分の芸術アートと信じる物を他人にも芸術アートと共有したい。だからこそ、他人に芸術アートと見せるために、他人の物の見方を考え、予測していかなければならない。他人への物の見せ方はポスト構造主義の私達の社会では気を付けなければならない。あなたは気を付けているだろうか、自分が思ってる自分は他人とは全く別人であるかもしれない。あなたの当たり前は当たり前では無いかもしれない。
#精華人文note

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?