比喩的な空間
この世の全ては、比喩的な表現から成る。
私たちの目に入るもの全てが、本質的には違うものなのかもしれない。
木目はまるで、人間の筋繊維のようだ。
マチュピチュの石で積まれた壁は、ヒトや植物の細胞を彷彿とさせる。
そして…
街の中を歩く人間や走行車両は、血管内を流れ続ける血液にも似る。
私たちは普段そんな事を全く気にせず、日々を過ごしている。
目の前の事に夢中で、それどころではないのだ。
お金の問題、人間関係の問題、健康の問題…様々な問題が邪魔をしてくる為、本質に対して盲目なまま。
そして結局…ほとんどの人は何も知らないまま、この世を去っていく。
…皆が、おかしいのか。
それとも私が、おかしいのか。
もしくは…どちらでもないのか。
そうやって「どちらか」に偏ろうとするから、本質が見えなくなる。
人間は概ね、グループに分けようとする。派閥ってやつを生まないと生きていけないのだ。ここに大きな落とし穴がある。
たとえば…水を割る事など、出来ない。
いや、一瞬であれば可能か。高速の刃で切る所をスローモーションで見れば、確かに一瞬だけ切れていたりするのかもしれん。でも…言うまでもなく、すぐ元の形状に戻る。
もし本当に水を真っ二つに切りたいなら、形状を「液体」から「固体」にしなくてはいけない。つまり、氷だ。凍らせる必要がある。
だが氷は時として亀裂を生むし、水ほど柔軟ではないので不安定。ヘタに割ろうとするとすぐに壊れてしまうだろう。
この性質は、二元的概念における「本質的な無理性」を表しているように思う。実は二元的な世界というのは、無理があるものではないのか。
聖書のモーセは、水を割った。
そして、エジプト軍から追われているイスラエルの民たちを逃がし、救った。
「水を割る」…この行為はどこか、この世における二元的概念の形成と、それを生み出すまでのプロセスを思わせる。
この後めでたく、神の選民たるイスラエルの民たちはエジプトから逃れた。
となると、ここで言う「イスラエルの民」とやらは、二元的概念の拘束から逃れた者たちとして描かれているようにも見える。
この宇宙での二元的概念からの逸脱…
それは単純に「死」を意味する。
私たちは結局のところ、それをこそ望んでいるのかもしれない。
考える余地すら与えられない、この「比喩的な空間」で…。
…ん?
生きているうちに、到達出来ないのかって?
まぁ、出来るのかもしれない。
それこそ比喩的になら、ね…。
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