懐疑力
私たちは、全てを決めつけながら生きている。
目の前のコップは絶対にコップだ。いきなりキーボードやヘッドホンに変わったりはしない。ましてや動物や虫などの生き物になったりもしない。コップ以外はあり得ないのだ。
目に入るものを全て「現実」とする。それ以外、選択肢はない。
その根本に存在する「己への洗脳」によって、一般人の社会的生活は成り立っている。
この対象の延長には当然、自分自身の存在もある。
「私は私だ。私は母でも父でもない。友人でもなければ子供でも孫でもない。私以外にあり得ない」
…誰しもそうやって日々、己をコントロールし続けているのだ。
ただ…ここにはある「余地」が残されている。
それはズバリ、「疑う余地」。
「目の前にあるコップは、本当にコップなんだろうか?いや…ひょっとすると何かの生物の一部だったりするのかもしれない。待てよ…なら必然的にこの「現世」と呼ばれる空間は、何らかの生物の体内って事にならないか?じゃあコップだけじゃない。この部屋にある全て…いや、私の親も子供も友人も…そしてこの世界そのものや宇宙すらも…何かの「たとえ」だったりしないのだろうか…?」
…悟りを開く第一歩として、まずはこの「懐疑力」が試される。
こんな矮小でちっぽけな人間が、どうして「神」みたいな存在が作った物を勝手に決めつけられようか。
だが事実として、ほとんどの人は己が生きやすいよう、目の前の事象を勝手に決めつけ、疑いもせず生きているのだ。
もちろん、「神」にあたる存在がいるかどうかは別として考えてもよい。
だがね…人間ってやつを「ちっぽけ」とか「矮小」と表現する場合、その表現を成立させるには対照的存在が必要となるでしょう?
要は「何に比べて、ちっぽけなのか」。そこがハッキリしていないと、おかしい話になってくる。
そう考え込んでいくと…やはりそこにはどうしても、神的な存在が垣間見えてくるのさ。ある意味、だからこそ「宗教」なんてのが成り立つとも言える。
…ん?別に人間をちっぽけだなんて思っていない?
そうそう、その通りだよ。
むしろ私たちはこの世における「最大単位」と言っても過言ではない。
つまり…
人間各々がこの世の「最大」と「最小」を内包しているのさ。それすなわち、「全て」である。
…なんか色々、矛盾してるって?
当たり前じゃないか。
だって私たち人間は元々、存在自体が矛盾した生き物なのだから。
だのにどうして皆、もっとこの世を疑わないのだ。
ヒトよ、疑え。己すらも…。
死ぬまで誰も教えてくれない事。
かつ、基礎中の基礎でもある。
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