特別性
一説によると、UFOに連れ去られる体験もまた、ある意味では臨死体験とほぼ同義らしい。
なら私はあの時、死んでいた事になるな。
そして時空を超越し、現実世界で言うところの「数時間後」に目を覚ました。
しかし…それを本当に「死んでいた」などと言えるのだろうかね?まぁ別にその現象自体を「臨死」と呼びたいなら、それでも良いだろう。
だが…じゃあ一般的に言われている「臨死体験」てのが、今度は怪しくなってくる。
たとえば私の友人は、体が健全であったにも関わらず、小学校の時に三途の川を渡る夢を見た。
彼は不思議な体験をする人で、幽霊もしょっちゅう見ていたし、グレイと遭遇したこともあった。
話を聞けば聞くほど…その人の世界はその人のイメージが作り上げているのだと実感した。
恐らく私の世界には「あの世」も幽霊も、そして「グレイ」も存在しないのだと思う。
つまりその友人は、己の世界の設定を「夢」という形のビジョンで再認識したに過ぎない。
…ほら、ね。こう考えるとやっぱり、「臨死」という言葉の定義が曖昧になるのだよ。
だって、「夢の世界」も結局、この現世と同じ軸にあるでしょう?だからこそ、こっちの世界にも影響を及ぼすわけであり。
友人はその夢を見たのち、夢で水先案内人に掴まれた足首に、人間の手形が浮かび上がっていた。
私はUFOに連れ去られて注射を打たれ、目を覚ました後も腕にその跡が残っていた。
これらは間違いなく、この世が「ひとつ」であることの証明なのだ。
生も死も、ない。
もちろん「臨死」なども、ない。
私たちが便宜上、説明しやすいように勝手に言語化しているだけ。
今YouTuberやバックパッカーなどの間で流行している「アヤワスカ」の体験を見ていても、やはり人によって見るビジョンが異なるのが分かる。
こういった例を振り返るに、やはり皆が皆の世界を持ち、それぞれがそれぞれの世界を構築している様にも思える。
「みんな、神様。それぞれ、好きな世界を作っている」、か…。それが本当なら…なんと言うか…確かにまぁまぁハッピーな結論になると思うよ。
だがね…この類の話は腐るほどあるでしょう?この「逆転の世」においては、よくあるエピソードとしてありふれている。
何より…
私がどれだけ違う方向から考察を進めても必ず、「この世界においてはマサヤン=ケンヂだけが特別な存在である」という答えに辿り着いてしまうのだ。どうやら、その様になっている。
それが「真実」なのか。
それとも…それもまた、私自身が決めた単なる「設定」であり、立場的には皆と同じ存在なのか。
…考えれば考えるほど、まるでマンデルブロ集合体のように、どこまでも深い谷へと迷い込んでしまう。
私から見た、私という存在の「特別性」。それを認識出来る以上、そこにはきっと意味がある。
この世には中庸が必要だ。全ては中庸から生まれた。なら逆に言えば、この宇宙において中庸が存在しない存在など、ない。
学校で習った通り、この世が球体なら…
当然、私たちは球体の「上(表面)」で生活している事になる。
でもね…このモデルだと中庸が無いのだよ。いや、あるにはあるか。地球のコア…そこが中庸になるのかな。でもそれって、おかしくないか?
そこはあくまで「物理的に丸い星の中枢部分」ってだけで…それは自分自身の中庸ではない。宇宙や神などをある種の「ヒト」と見るなら、この解釈はおかしいと思う。ヒトから成るこの宇宙ってのは、そんなに単純かつ低劣な存在なのかね?
…私はそうは思わない。
私も含めて皆…真理を探究するからにはまず、己の「特別性」を理解する必要がある。
全ては…そこからなのだ。