終わらない成長期
ここんとこ最近、昔の事を思い出す回数が減ったような気がする。
夜、寝る前にウイスキーを飲みながら地元の釧路を紹介するYouTube動画などを見ていたりするんだけど…
確かに懐かしく、胸がぎゅっとなる時もあるのだが…何と言うか、以前よりも過去の出来事や思い出に執着しなくなったように思うのだ。
44年間…この人生においては、本当に色々なことがあった。ほぼほぼ、ネガティヴな事ばかりだったがね。
だがそのどれもが懐かしく、今となっては良き思い出である。
ひと昔前は目を逸らしたいくらいの過去なんかもあった。でも今は静かに、その全てを受け入れられるようになった。
そして…それと同時に、今まで以上に「あの頃に戻りたい」という気持ちが薄れた。
過去には戻れない。そりゃーそうだ。
でも…人はどこか昔を懐かしみ、「過去に少しでも戻りたい」という願望が、少なからずあるように思う。
その一切の感情が、私の中から消えた。
まぁ、きっと良い事なのだろう。ともかく「前しか見えない」状態なんだよね。
釧路湿原の中を、まるでヘビのようにうねる釧路川。
「ドラゴンの子宮」たる釧路から生まれた私は、人間年齢44歳にしてようやく飛び立てるようになったのかもしれないな。
にしても、まだまだ小物だ。伸び代はいくらでもある。少なくとも私自身、勝手にそう思っている。
私の寿命が80歳なのか100歳なのか知らんが、その間がずーっと「学び」だし、ずーっと「成長期」だ。
じゃあ…その後は?
もちろん!「成長期」は続くのさ。物質的な世界に戻ってきて、たとえまた赤子からスタートするとしても…その時は本質的に間違いなく、以前よりも「成長」している事だろう。
流動こそ真理なり。その流れは決して、この肉体の「死後」とて止まる事はない。
そう考えるともはや安寧しかないし、本質的には何の不安も不満もない。
そして私がこの世を生み出しているなら…
当然、宇宙の成長もまた…私の成長と共にある。
最終形態?そんなもん、ないでしょう。
もし「最終」なんて場所があるならそれは「終着点」であり、同時に流動が止まる事を意味する。そんな事象は絶対に存在しない。少なくとも、「今」は。
私も、そしてそこのあなたも…ずーーーーっと、成長期なのである。
「死に近づく」…これがどれだけ、尊い事か。
それを「幸せ」と表現するなら、やはりみんな、既にそれを手に入れているのだ。
——「我々」という、素晴らしき存在に乾杯。