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私が経験した範囲での「地下鉄サリン事件」とその後 2 (全3回)

上野の仕事現場へは思ったよりも早く、少し遅れたくらいで着くことが出来た。
奏楽堂、という古い音楽ホールの観客席の床清掃だ。すぐに作業着に着替えて作業に加わる。
相変わらず目の痛みは続いていた。地下鉄が止まったためとはいえ、遅れて来てすぐに病院に行かせてくれ、とは言い出しにくく我慢していた。昼休みに目薬を買おう、駅前まで戻れば薬局くらいあるだろう、そんなことを考えていた。

午前10時半くらいだったか、11時くらいだと思う。この時点まで我々作業員は仕事をしているので、事件のニュースを知らなかった。仲間の一人が何かの用事でホールの事務室に行った。そこで当直の職員がテレビの臨時ニュースを見ていたようだ。そこで情報を持ってきてくれた。
どうやら地下鉄で大規模なテロ事件が起きている。そして「岩崎君のそれ(目の赤さのこと)、サリンみたいだよ。早く病院へ行った方がいい」と私に言った。

私はすぐに御茶ノ水駅近くの順天堂病院に行くことにした。当時は携帯などはなかったので、すぐ近くの道順のわからない病院をうろうろと探すより、少し離れていても、もともと自分が場所を知っている所に行く方がいいと思った。そこで再び着替えて上野の仕事現場から御茶ノ水の病院に向かった。

さて、この間の出来事なのだが、どうやら私は「サリン」と聞いたあたりからパニックのようなものを起こしたらしい。地下鉄が止まったこと、うずくまっている人の姿、ホームで咳き込んだこと、今も続く目の充血と痛み、全部がつながってきた。

この時「事件」そのものは起きてはいたが、まだそれに「地下鉄サリン事件」という名前は付いていなかった。
前年に起きた「松本サリン事件」の報道は一応は私も見ていた。といっても人並みの関心程度でサリンの毒性やその症状についてまでは乏しい知識しか自分にはなかった。
今なら病院へ向かいながら携帯でサリンのことを調べて、自分の症状と照らし合わせることも出来るだろう。もっともそんなに私が冷静でいられるかどうかは別だが。

とはいえ、私は電車の乗り間違いや道に迷うこともなく、病院に到着している。
しかし、上野の現場から御茶ノ水の順天堂病院までの道のりの視覚的な記憶が全くないのだ。今も思い出せない。
たしかにその時の街の様子や電車の車内や駅などは日常的な光景なので、記憶に残らないのかもしれない。しかし、順天堂病院の前には警察や報道の人間も含めて、大勢の人間が集まっていたに違いない。
おそらく普通ではない光景がそこにはあったはずなのだが、そこの記憶も完全に欠落している。病院の建物やロビーの様子、そして私は受付で何らかの手続きをして中に入ったのだが、そのことも全く思い出せない。

今、思い出すのは、私の中で時間が経過した感覚は確実にあるのに、そこに全く映像的なものが一切伴わない、自分の内面の感情と言葉だけが存在するような、ひどく奇妙な形の記憶だ。

自分がサリンという猛毒の物質を吸い込んだ、という厳然たる事実。
今にして思えば、これもその時の私にサリンの知識が乏しかったせいなのだが、私は「自分がこれから死ぬ」という恐怖に捕らえられてしまった。今はまだこうして歩くことが出来ている。しかし、これからどうなるかはわからない。このあと私にどのような苦しみが来るのか、痛みが来るのか。

少し冷静になった方がいい、そんなことを思ったのを憶えている。落ち着いて自分で自分の今の状態を見るのだ。目は相変わらず痛い、咳はあれから出ていない。そうだ、頭はどうだ? 自分の名前、住所、電話番号、ちゃんと言える。自分が死ぬかもしれない、ということが妙に信じられない。このまま大丈夫なのではないか。
するとすぐにホームで咳き込んだ記憶、そして目の痛みが再び襲ってくる。やっぱり本当に駄目なのか。心底怖い。もう一度、何でもいいから考える。両親の名前、自分の出身校の名前、昨日、自分は何をしていたか。大丈夫、ちゃんと出てくる。
ひょっとしたら私は電車の中で、自分の住所をくりかえしブツブツと口に出して言っていたかもしれない。今となってはわからない。
こんなことをしていても、結局自分がこれから死ぬことへの恐怖には勝てなかった気がする。どうやっても私の心は落ち着かなかった。この間の視覚的な部分の記憶は全部飛んでしまった。

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視覚的な記憶が戻るのは、順天堂病院のロビーの固い木製の長椅子に座っている自分の姿だ。どうやって受付をしたのかは覚えていない。とにかく大勢の人と一緒に私はこの場所に座っている。そして次の指示を待つように言われた。つまり、うろうろと歩き回ってはいけない。ここにいなければならない。
私の目の前にはストレッチャーに乗せられて動かない男性がいた。その横にはベッドに寝かされて人工呼吸器を付けられた男性、さらにストレッチャーに横たわる人が数人、その横には車椅子が数台、並んでいて、女性もいたように思うが、皆、首をがくりと落として座り込んで全く動かなかった。何人かは簡易的な酸素マスクを付けていたようだが、全員にではない。

自分とほぼ同じ時刻にサリンを吸った人間がこんなことになっている。私はこの人たちの姿を見て、当然かなりの衝撃を受けた。と同時に申し訳ないが、私は安堵の気持ちを持ってしまった。自分は全然、軽症だったのだ。
目の方はまだかなり痛い。後遺症で視力が極端に落ちるかもしれない。私は売れてはいないが写真家だ。それなりに野心もあった。でも写真家はもう駄目かもな、と思った。

私たちはロビーから講堂に移動するように言われた。これから血液検査をするという。
講堂に入ったのが、たぶん、午後1時か1時半くらいだったような気がする。百人以上はいたと思う。それぞれ適当に席に着いた時点で、医師から説明があった。
「皆さまが浴びたのはサリンガスです」
ここで我々は正式に自分たちが何に遭遇したのかを正確に告げられたわけだが、私も含め、皆、ニュースなどで知ってはいたものの、やはりザワザワとした感じになった。が、すぐに静かになったような記憶がある。
今、松本サリン事件の資料を松本市の病院からこちらに送ってもらっている。ただし、松本サリン事件と今回のサリンが同じ成分かどうかはわからない。取り合えずこの場で待つように指示して医師は出ていった。

結局、私がこの場所を出たのは夜の8時すぎだったと思う。7時間ほどここにいたわけだが、この間の記憶はひどく単調だ。
血液検査が始まった。採血をされて番号の書かれた小さなカードを渡された。今度は結果を待つ。ただそれだけの時間になった。私は奥に座ってしまったので、順番は最後の方だった。

数時間ほど経って、医師が順番に血液検査の結果を発表していく。最初は1番から10番まで。番号を呼ばれた人は別室に行ってさらに検査を受ける。呼ばれなかった人は帰ってよい。こんな感じで不定期に10人ずつ発表が続けられた。私の番号は遥か先だ。
別室に呼ばれる人は少なかったと思う。ほとんどの人は、あくまでこの日の結果だが、取り合えずは異常なし、ということで荷物をまとめて出ていった。

やがて夕方になり、夜になった。講堂の中はガラガラになっていった。私の結果はまだ出ない。
この長い待ち時間の間、私は何をしていたんだろう。時々、手洗いに行って鏡で自分の目の充血を確かめた。他人から見ればまだ真っ赤だ。ただし、私は朝の一番ひどかった時を見ているので、赤みの濃さが少し薄くなっている気がする。そういえば目の痛みも少しずつ弱まってきていた。視力も落ちてはいないようだ。大丈夫かもしれない、というのは写真家を続けられるかもしれない、ということだが、そんなことを思った。

私は途中で何かを食べたのだろうか。たぶん朝から何も食べてはいない。飲み物は販売機で何かを買って飲んだ気がする。状況が状況だけに早く帰りたいとも思わなかったし、イライラもしなかった。退屈する余裕もなかった。バッグの中に本があったがとても続きを読む気にはなれない。ただ、座っていた。ただ、待っていた。
ようやく、私の検査結果が発表される時間が来た。私の番号は呼ばれなかった。つまり、帰っていい、ということだ。

家に帰った。夜の9時頃だったと思う。
今日、着ていた上着、靴、鞄などにはサリンが付着していると思われるので、ビニール袋に入れて捨てるようにと、病院から言われていた。もったいない、とも思ったが改めてそれを着る気はしない。なので袋に詰めて次のゴミの日まで玄関に置いておいた。風呂でサリンが付いている顔や頭髪を念入りに洗った。
これは後で思ったことなのだが、検査の結果が出るまであれだけ何時間も待ち時間があったのだから、すぐに病院の洗面所で顔や頭を洗ってもよかったのだ。やはり、この日の私の精神状態は普通ではなかったのだろう。全くそのことを思いつかなかった。

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