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私が経験した範囲での「地下鉄サリン事件」とその後 3 (全3回)

その後についてのことになるが、今でも私の目はすぐに充血するし疲れやすい。ただし、これが事件の後遺症と呼べるほどのものかどうかはわからない。
精神的な面でも私自身は外に出られない、あるいは地下鉄に乗れないなど、事件のトラウマを抱えることもなかった。私には心的ダメージは起こってはいないのだ、そんな認識だった。

それからの数年間、毎年3月20日近くになると、「地下鉄サリン事件から何年」という特集が新聞やテレビで流された。私はとっくに日常の生活に戻っていたが、やはり、それらを目にしてしまうと、あの日のことを思い出してしまう。しかし、それは思い出すだけで特に何ともなかった。
その後、私は写真家としてはさしたる結果も出せず、人生はなだらかに下降していった。そして39歳の時の3月に、どかんと重いやつが来た。

「地下鉄サリン事件から10年」。メディアに特集が一気に増えた。少なくとも私にはそう感じた。新聞、テレビ、ネットや電車の中にある週刊誌の中づり広告など、「10年」、というその文字群が私の生活の外から自分を攻めてくるような気がした。

この10年間、一体私は何をしていたんだろう? もうすぐ40歳になる。何も結果を出せていない。努力が足りない、と言われればそれまでだが。決してだらだらと過ごしたわけではない、と自分では思いたい。が、しかし…。
これをきっかけに、前述した上野から順天堂病院までの視覚的な記憶が全て消えた、あの時の、死ぬことへの恐怖の時間、が強烈に蘇ってきた。もちろん、理性では自分は大丈夫だったことも、あのようなことは滅多に起こらないこともわかっている。しかし、あの時の自分の感覚はまだ消えてはいなかったようだ。

さすがに時間が経っているので、身がすくむような恐怖の感覚は薄れている。とはいえ、その感覚は、無為に過ごしてしまった自分の10年という時間と、なぜだか強固に結びついてしまって、何か「とても大きな無力感」となって私を打ちのめしてしまった。
これが鬱というものなのか。結局、私は精神科の診断を受けなかったので、正確なところはわからないが、この頃には写真はほとんど撮らなくなってしまった。
「せっかく助かったのに…」
何かと自分を責める気持ちが強くなった。しかし同時に全てが無意味な気がしてきた。
翌年から「サリン事件」の特集は減ったが、私のこの状態はそのまま数年間続いてしまった。

自死、ということが数回、頭をよぎったことがある。誰に対して、あるいは何に対してだか、上手く言葉には出来ないが、とにかく自分がいることが「間違い」だ、という気がしてきた。
一度だけドアノブにひもをかけて輪っかを作った。結局、その輪の中に自分の頭を入れることはいざとなると出来なかった。
私は古いマンションの6階に住んでいる。「なんだ、今からベランダに出て下に落ちればいいんだ。死ぬなんて気が向いたらすぐ出来る」 ある日、そう思った。
変な考え方だが妙に救いにはなった。この時、私の精神は底を打ったのだと思う。

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その後、私は写真は何となく止めてしまい、絵を描くようになり、ネット上にポツポツと作品を発表していった。やがて「地下鉄サリン事件から20年」が近づいた。私は49歳になっていた。

また事件の特集の記事などが増えて、再び自分の精神が病むのではないかと、かなり身構えもしたが、その前の年、ネット上での私の作品を観た人から誘われて、初めて自分の絵がギャラリーの壁に掛かった。小さなグループ展だったし、客もほとんど来なかったが、私はこうやって生きていけばいいんだな、と思った。なにか人生の方向性が定まった気がしていた。

事件から20年の3月はどのように過ごしていたか、あまり記憶はない。
やはりメディアでの特集は増えた気もするが、特に目をそらすわけでもなく、たまたま見たものもある。それより作品を描くことに没頭していた。いや、やはり意図的に作品に集中していた。番組などはわざと見ないこともあった。まだ少し怖かったのだ。今も後遺症に苦しんでいる人たちには申し訳ない気持ちもあるが、これも自分の心を守るためだ。

今年は「地下鉄サリン事件」から30年たつ。メディアで特集がまた増えるかもわからないが、それらを目にしても、自分はもう大丈夫だろう、という気がする。ひょっとすると、まだ私の精神に変調をきたす恐れもある。あの恐怖の感覚を忘れたわけではない。ただし、もう自分でそれにうまく対応できる気はする。

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一応、これで私の見た事実と自分の精神状態については書けたと思う。

幸いなことに、といっても事件に巻き込まれないのが一番の幸いなのだが、私自身は事件によって死亡したり、肉体的あるいは精神的にその後の人生が完全に狂ってしまうことは起きなかった。
被害者が他にも多数いる中で、これを私の幸運と無邪気に言っていいのか、あるいは単なる偶然と言うべきなのかわからないが、ともかく、私をあの状況の中で救ってくれた一つの事実がある。

サリンというものは空気よりも若干、重いようだ。もちろん、多数の乗客の移動により、それが巻き上げられて被害が拡散していくのだが、私が降りた神谷町駅では、事件発生直後でもあり、地下のホームではサリンが充満していたものの、上の階の改札口付近までは、まださほど届いてはいなかった可能性が高い。

前述した通り、地下鉄が全線で止まり、私は乗り換えのため降りる予定ではなかったこの駅に降りた。私はこの駅の構造を全く知らない。
「ああ、乗り換えか、面倒だ」 電車が止まり、扉が開いた時、目の前の少し先に上に上がるエスカレーターが見えた。私はまっすぐにホームを横切って、そのエスカレーターに乗って上に昇った。
たしかに私はサリンを浴びてしまった。とはいえこの時、私はサリンが充満している空間を、何も知らないままに「最短距離」で、非常に「短い時間」で通過出来たのだ。

もし、私が降りた場所とエスカレーターの位置が離れていたら、ホームの端から端へと歩くことになっていたら、今の私でいることが出来たかどうかはわからない。

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