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#3 二人の先生~①城村先生編~

こんにちは!はたのです。

今日は#1でも書いた、私に沖永良部民謡を仕込んでいただいた恩人でもある2人の先生について紹介します。
今回は城村秀治先生について紹介させていただきます。

静岡を離れ関西へ進学した時から今にかけての人間関係は、進学先の専門学校や最初の職場で知り合った人を除くと、ほぼ全て辿ればこのお二人に行き着きます。

そもそもこのお二人に偶然出会わなければ沖永良部島にも出会わなかったし、今の会社に就職もしてないし、奥様とも出会っていません。

ただ民謡を習っただけでなく、自分の人生に大きく関わってくるお二人です。

今までお二人の紹介はあまりしたことがないのですが、敬意を込めて、また唄者としての記録も兼ねてご紹介させていただきます。


沖永良部島で生まれ育ち、復帰後に関西へ

先生は1928年昭和3年、沖永良部島知名町上平川集落出身です。
当時まだ島民のほとんどが茅葺きの家に住んでいるような貧しかった時代、両親の顔もわからず祖父母に育てられたようです。

島の有名な歌詞のひとつ「我ぬ産ちゃる親や 産ちゃぬ名どぅ立ちゅる 雲風がやたら 行方しらん(訳:私を産んでくれた親は名前だけは知っているが、雲風のように行方がわからない)」の唄を歌ったあとには、よく会ったことのない両親の話しをしてくれました。

お父さんは満州へ行っており、戦争中に船に乗っていたところ撃沈され亡くなられたようです。

先生は背がとっても低く整列すると常に一番前だったようですが、学生時代は成績優秀で生徒代表で答辞を読むことも多かったようです。

戦争中は周りの人と同じく自分も兵隊となり御国の役に立ちたいと思っていたようで、自ら鹿児島に志願兵として行こうとした際、育ての親である祖父母の必死の引き留めにあって島に残ったようです。
その時代の話になるといつも「あの時行っていたらきっと死んでたと思うわ」と笑ってました。

そんな先生が島で民謡を始めたのは青年になってから。
当時電気もラジオも何もない島で、唯一の楽しみは農作業後の唄遊びでした。

唄遊びは男女の出会いの場としての側面も大きく、多くの若い男女が夜な夜な集まっては三味線や胡弓を弾き、唄を歌い夜が更けるまで遊んでいました。
「遊び夜ぬ浅さ ゆねでぃすりゃ夜中 夜中だらすりや 鶏ぬ歌てぃ(遊びに更けてると夜が短く感じる。夕方だと思えば夜中、夜中だと思ったらもう鶏が鳴いている)」

唄遊びの詳細を書くと長くなるので、今回は省きます。
今でこそどこか神秘的で男女の唄掛けもロマンチックに感じますが、生々しく面白い話しもかなり聞きました(笑)

夜は三味線を片手に唄遊びへ家のある上平川字から後蘭字や玉城字まで歩いて回るほど、唄遊びに耽っていたようです。
また上平川で劇団みたいな演奏集団を組んで、色んなところを回って演奏していたらしいです。

そんな先生も奄美群島が本土復帰を果たした数年後の昭和30年に、出稼ぎのため関西へと渡るのでした。


出稼ぎに出てきた関西で琉球芸能の道へ

関西へ出稼ぎに出た先生は、当時日本に数台しかないような大型クレーン車の運転手として働いていたようです。
戦後の高度経済成長期の日本、たくさん働いてそれなりに稼いでいたようです。

そんな時も常に肩身離さず隣にあったのが、島でずっと弾いてきた三味線でした。

沖永良部島の各字には「ふくらしゃ(御前風)」という踊りがあるのですが、この踊りの伴奏は琉球古典音楽の代表曲「かぎやで風」という曲がベースになっています。

このふくらしゃをしっかり伴奏できる唄者が当時の沖永良部島にあまりいなかったようで、せめて関西でこの曲はしっかり弾けるようにしようかと琉球古典・民謡教室の門を叩いたようです。

当時の関西は琉球民謡の父ともいわれる普久原朝喜先生はじめ、沖縄音楽会の重鎮たちが数多く出稼ぎに来ていました。
特に大阪市大正区に多く集まっていたようで、今でも大正区の4人に1人は沖縄の血を継いでいる?とも言われています。
また奄美民謡界のトップに君臨するような勝島徳郎さん・武下和平さん・上村藤枝さんなども関西へ来ており、奄美・沖縄民謡界のスターたちが関西に揃っていました。

そして1970年に普久原朝喜先生の一番弟子、比嘉康博先生に琉球古典・民謡を師事し始めました。
この比嘉先生も当時まだ珍しかった古典と民謡の二刀流で名を馳せており、沖縄の重鎮たちからも一目置かれていたようです。

島でも三味線をしていたためすぐに色々弾けるだろうと門を叩きましたが、なんと半年間もの間「上り口説」という曲だけを永遠と練習させられていたそうです。
これには先生も「いいかげん頭にきてもう逃げ出そうかと思ったけど、さすがに次行ったら違う曲させてくれるだろうと思い通っていたら半年間経ってた(笑)」と苦笑いしていました。

ただこれは当時島で我流でやっていて色んな癖が付いていたため、琉球古典・民謡を習うにあたりその癖を矯正する目的で、ずっと上り口説だけを練習させられていたそうです。

しかし癖さえ直ればあとは曲を覚えるのみ。
元々大の三味線好きであったし頭も良かったため、曲もどんどん覚えていき1979年に琉球民謡の教室免許を取得しました。


尼崎で民謡教室をはじめ、数多くの弟子を育てる

1979年に城村秀治琉球民謡研究所を開設以降は、同じように関西へ出ていた沖永良部島出身者を中心に多くの弟子を育ててこられました。

しかし琉球民謡協会に属していたため、教える曲も生まれ故郷の沖永良部民謡ではなく沖縄民謡中心で教えていたようです。

そんな時に転機が訪れました。
師匠である比嘉康博先生に「沖永良部で1番の曲はなんや」と聞かれた先生は、島で古くから大事に歌い継がれてる民謡「イチキャ節」を歌いました。
するとこのイチキャ節に深く感銘を受けた比嘉康博先生は、自身の第1回発表会で先生に対していちきゃ節の独唱をお願いしました。

そこから沖永良部民謡の魅力を再確認し、自分が青年時代にずっと歌ってきた沖永良部民謡を、沖縄の工工四で採譜する取り組みをはじめたようです。
当時大阪で懇意にしていた大島海苔の吉俣社長の支援も受けて、沖永良部民謡工工四という本も上下巻で発刊されました。

次回ご紹介するもう1人の先生のように、島で唄遊びをしていて我流で沖永良部民謡を弾ける人は教室に少なからずいたようです。
しかし、表向きは琉球民謡研究所。
そんな人たちとは沖永良部民謡を弾いていたようですが、それ以外の人には例え島出身者であっても有名な曲以外の沖永良部民謡はあまり教えていなかったようです。

兄弟子の1人が自分に対して「アンタはエラブの唄をたくさん教わって羨ましいわ〜。ワシら昔は先生から島の唄は教えてもらえんかったから、今も全然弾けへんで〜」と言われたこともありました。
関西で沖永良部民謡をするより、沖縄民謡を弾けていた方が様々な舞台にも立てるし、社会的にも認められるだろうとの先生の親心もあったのかもしれませんね。

そんなこんなで先生が85歳ですでに盲目となっていた時、(結果的に)最後の弟子として入ってきたのが私でした。

最後の弟子だったからか、見込みがあったのか、それとも何か他の理由があったからか、今となっては定かではありませんが、私には古い沖永良部民謡を快くたくさん教えてくれました。

2015年1月に先生の米寿記念演奏会

そんな先生も90歳を超える頃には耳も遠くなっていき、多くの曲を忘れていってしまってるようでした。
関西でこれだけは弾けるようになりたいと、あれほど弾いていたはずであろう「かぎやで風」もめちゃくちゃになっていましたが、青年時代に島で弾いていた沖永良部民謡だけは最後まで覚えていました。

二人の先生に沖永良部民謡も沖縄民謡もたくさん教わって一緒に弾いてましたが、城村先生の晩年は多分3人で沖永良部民謡ばかりを弾いていたような気もします。
耳も遠く勘所もズレて、聞いたこともないような昔の歌詞ばかり歌っていましたが、もう1人の先生と一緒にその唄に三味線をずっと合わせていた思い出です。

その後、先生は2020年に92歳で亡くなりました。

いま思い返すとなんとも言えない貴重な時間と経験、そして一生の財産を与えていただきました。
もう一回尼崎の先生の家に戻って3人でコーヒー飲みながら、何時間でも三味線を弾いて遊びたいですね。
(自分が寿命を全うできるなら50,60年後くらいかな?)

先生、みへでぃろど〜

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