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外来種撲滅、絶滅危惧種保護と言う思い上がり。「池の水を全部抜く」って嫌なことだ。

ブラックバスという肉食の魚が日本の川で沢山の固有種を絶滅に追いやっているという。日本の固有種を守るためにブラックバスを「排除」するという。この方々は、神様にでもなったつもりか?おかしいと思わないのか?

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遺伝子の多様性を保つために、絶滅危惧種は保護されなければならないと聞こえの良いことを言うが、自分に忖度する生き物をばかりの世界を作るつもりか?かつて、黒人運動家のジョークで、神さまは白人だったから黒人を奴隷にして良いとなっているのだというのがあった。笑えない。

タンカーは石油を積んで来て帰りには海水を入れてバランスを取り、積み込むところで排水する、大変な量の生物が運ばれている。渡り鳥は大変な数の生命を空中輸送する。新潟ー佐渡ー能登半島の昆虫の生態・形態からいつ頃この地域が海によって切り離されたか分かるという。生命は狡猾で巧みだ。今この瞬間もその土地で生きるための最適な形に適応していっているのだ。それを「進化」と私達は呼ぶが、「適応」とよんだ方がいい。

移民問題と、この外来種嫌悪は同じ様に見える。

ブラックバスは何も知らないで日本の川に放流された。釣り道具屋の仕掛けたことなのかもしれない。しかし、生命はそこで必死に生きようとしているのではないか。

アメリカザリガニや食用カエル(ウシガエル)類例はいくらでもある。

日本の鯉がミシシッピー川で異常に繁殖して外来種として排除の対象となっていると聞く。身内が外国で虐められているようで気持は良くない。

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「郷に入ったら郷に従え」というのは実に嫌な言葉だ。

特に、外から来た生意気なやつを、みんなで「いじめ殺す」時のキャッチフレーズに使われたときは本当に嫌な気持ちになる。

「郷」と言う言葉を使っているが実際には、いま既得権益を持っている人間に上納金を払えという事だ。文句を言わないで黙って従えということである。僕は転職30回以上、何度も職を変わりながら東京から新潟に移り住んだ。大阪にもいたことがある。まさに外来種だ(笑)。

確かによそ者は、「自分たちにはわけのわからないルール」で生きている。同時に、今までの生活を忘れられないから、どうしてもその場所に批判的になる。自分の生きてきた生活を批判されるのが嫌なのはどちらも一緒だ。どっこいどっこいの力関係の問題になる。

今アメリカでは白人の数のほうが少なくなってきている。白人にとってはは恐ろしいことだろうなと思う。

「ゾンビ系」の映画というのはその恐ろしさを表している。冷戦時代は共産主義が恐怖のもとであった。「ボディ・スナッチャー」やレッドパージ、いずれも、笑い話でも過去のお話でもない。

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僕は、生命というのは「マイクロバイオーム」の乗り物だと考えている。ドーキンスは遺伝子の乗り物といっていたが、遺伝子は「細胞生命のプロトコル」でしかない。生命というコロニーがどんな形を取るかは環境が決める。

身体の形態は、環境に対しての適応した姿なのだ。

恐竜が氷河期で滅びたと学者は言う。本当に馬鹿だと思う。昨今のマイクロバイオームの考え方からしたら、「恐竜という乗り物」は氷河期に適していなかったのである。哺乳類が偉かったわけではない。きちんと恐竜の遺伝子の痕跡は受け継がれている。

生命の単位は「マイクロバイオーム」なのだ。

「ウイルスは宿主を殺さない」と馬鹿なことをほざいている学者もいる。ウイルスは宿主の存在を知らないのだ。単に自分最適な環境を探しているだけなのだ。宿主が死のうとも、細菌やウイルスは他を当たるだけだ。エボラが人を殺すというのは、人というコロニーがエボラに適応できていないだけだ。

病は、現実の環境に適応できないものを殺す。そして、新しくより適応した生命を作るのだ。病(と死)の意味はそこにある。私という個体は死ぬことで新たな生命に受け継がれるのだ。植物は「葉」を落とすことで新しい環境に適応した「葉」を生み出すのだ。幹と根は葉が生きるためのマンションのようなものだと考えれば分かりが早い。

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病は、過去の自分が未来へ飛ぼうとする瞬間に起きる

常に環境は変わり、身体はその内側から変化します(メタモルフォーゼ)。
そのために、思春期があり、閉経が有り、更年期があり、認知症が有り......

次のステージに変態するとき大きなトラブルが起こるのです。

母が亡くなり、新しい環境の中で自分を保つ必要がありました。そして僕を言いなりにしようとする輩がその本性を表したのです。

僕はここ数年人を殺す夢を見る。妻に対しても自分でもおかしいと思うくらい切れる。家族や周りの人間から見たら「おかしい」と思われる行動を取る。精神病院いけば何らかの診断とよく効く薬が処方されるだろう。そして僕に見えているものが異常なのだと言うだろう。

しかし、なんとか生き抜いた。まだ終わったわけではないが。

最近、ようやく家族も僕に見えているものを見てくれるようになった。5年前に僕が直面した現実を分かってくれたのだ。

同時に僕が切れることも無くなり(少なくなり)寛解していると言えるだろう。一番理解してもらいたい人たちに「お前がおかしい」と言われ続けてきたのだ。時間が経って、アイツラがおかしいと行ってくれるようになってきたのだ。

自分に見えるものに従って生きることが大事。

同時に共に生きる家族は「同じ価値」を信じて生きる等が幸せになる。

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専門家(商売人)が利益を生むために売っている「餌(食事のことです)」を食べて生きたいとは思わない。僕は自分で素材から食事を作る。それこそが自分らしさを見つける道なのだ。商品化された食事をっ食べながら医師の処方薬を飲むのはどう考えても納得行かない。

自分という現実は唯一無二のものだ、誰にでも効果あるような食事などあるわけがない。そもそsも食事を効果で図ることもおかしい。生命が食事通じて僕になっていくのだ。

2019年の9月以降、ペットのマユのご飯も素材から僕が作っている。

マユのご飯3

きっと身体は軋みだすだろうが、そしたら食事を工夫する。食事を変えて、その未来の自分に一番良いものを探す。

僕は料理の研究をしているのではない。自分の身体の研究をしているのだ。きっとどこかの誰かに意味がある。

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このお話の続きです。

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幸運な病のレシピ
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。