木蓮の取り木:愛しの南方熊楠先生、生命の「律」を見つけた精神
少し前に、庭の木蓮を切った。隣の家にでていて、秋になると沢山葉を落とすのでなんとかしなければならなかった。
庭の木蓮を切った
梅の取り木で「ネメデール(根芽出る)」という薬剤を買った。木の幹から皮を剥がして、「ネメデール」して水苔で覆うと、そこから根が出る。3ヶ月くらいしたら幹を切って時に下ろすのである。
切った木蓮にはもう芽がついていた。取り木が出来ないかやってみることにした。木蓮はただ水に生けても、水の吸いが良いので花までは咲くがそのままでは中々根はつかない。
サンゴ礁に意識はあるのか
木蓮の蕾が可愛そうだったので、ここから根が出たら面白いなと思いやってみることにした。この可愛そうという感覚も考えてみるとおしろい。
「植物に意識はあるか」と言う議論はときおり見かける。このテーマは、擬人化ということを考える上で面白いし、「人間のどこに意識があるのか」という問いかけについても考えると面白い。
社会学的には、「国家ってどこにあるのか」という問いかけとも重なる。
木全体を一つの生命と考えて、その一部を切ってしまったと見えるのだろう。人の四肢を切ったような感覚である。科学にいおいて最も忌避しなければならないのは擬人化である。
擬人化(自分に当てはめてみる)は思考を停止する。植物に関してはかなり本を読んだ。葉の代謝系で、「太陽光線と二酸化炭素と水」から、「炭水化物と酸素と水」が作られるプロセスを調べた。研究者は木全体を生物として考える。だから「意識はあるのか」とかわけのわからないことを言い出す。
逆である、人の意識というのは何なのかということを問うべきなのだ。社会における「権威=国家」とは何かということを考えるべきである。
時折「意識とはなにか」という論を読むが、脳の何処ココが電気的興奮をするとか、ホルモンが出るとか細かい研究はなされるが、そんな現象が意識とは何かを解明するとは思えない。脳についての科学は袋小路に入っている。心の病に「よく効く薬」という金のなる木が先に進むことを終わらせたのだ。
かつて学者は真実を追求していた(フェイクでは有るが)。しかし今は完全に企業に買い取られているのだ。人々から製薬会社は金を徴収する、そしてその金のおこぼれが科学を買い取ったのだ。
僕は自分の人生を生きるために学ぶ、考える、見つける。そして多くの人と共有したい。自分らしく生きることの素晴らしさを。
幹が炭水化物だというと多くの人は驚く。炭素と水素と酸素の安定的な化合物なのだ。植物は太陽光線をほぼ100%炭水化物とする。無論タンパク質も脂質も作るが、全重量からすると僅かである。
すべての生命の源である。幹を構成する「リグニン」という炭水化物は分解するのが容易ではない。それができたおかげで今の世界はある。石炭石油のもとになる炭水化物はリグニンを分解できない化石年代に作らて地中に封じ込められた。
リグニンを分解したのは「粘菌」と言われる単細胞生命の一種だ。南方熊楠先生が見つけ出した「律」である。僕は、先生が大好き。破天荒で権威を信ずること無く自分に見えた世界を記述している。僕が尊敬する精神である。
植物というコロニー、食物連鎖という生命の流れ
今回は、すでに切った枝から根を出そうというのである。動物では、プラナリアなどは半分に切った身体がそれぞれに増殖して2匹に増えるという。身体を「細胞という生命の単位」の入れ物と考えるとスムーズに事は運ぶ。
植物というコロニーは、葉が生命の単位である。そして、「根」にデンプン(ブドウ糖の結合した生化学物質)を幹の中のを満たす海を通じて渡す。根はそのデンプンを滲み出しながら、細菌(マイクロバイオーム)を取り込み、「植物の内なる海」に満たす。僕は細菌こそが、地中のミネラルを生化学物質に組み込んでいる考える。僕はそれを生体ミネラルと呼ぶ。研究者事は考えもしない。成分の分析はタンクレベルで「よく効く薬」を作るために必要だ。
そして食物連鎖という生命の流れは「お日様の力」を使ってブドウ糖をつくるところから始まる。ブドウ糖は効率よく「水素」と「炭素」を運ぶ。生命の共通の通貨なのだ。根の細胞は太陽を受けないがこの通貨のおかげで自分と同じ細胞生命を地中に広げる。大事なことは、根は葉のことを知らないのだ。葉自身が一つの生命(のコロニー)なのだ。植物に意識(中枢と末端)などという仮説は意味がないのだ。葉が茂り、根が伸びるのはそれぞれの細胞が環境に適応しながら生息域を広げようとする事が「律」なのだ。
鉄の塊を米に入れって炊いたところで、身体にとって有効な鉄分は取り込めないのだ(笑)。貧血という鉄不足はFeが身体の海の中に足りないのではない。生命に使われる形で受け取れなくなっているから起こる。使うための代謝系が食物連鎖の長い道のりの中に無いのだ。
医学者は商品をつくる企業から金をもらって生きる。商品の効き目を保証する「真実(対照群での効果の有意差)」を見つけ出す。恐ろしいことに実験のアウトカム(効果)をどう設定するかでいくらでも真実は見つかる。
だからアイツラはインチキ叔父さん。その薬が今ここにある苦しみをすくうことは保証しない。
人は食事で、「長い食物連鎖の鎖」の一端に入るのだ。そして時代はどんな食事が可能かを定義する。逆に言えば異なった食事環境が時代を定義できる。そして、様々な災厄を人々にもたらす。調理から文化を定義するのは楽しいことだ。
皮を剥いで、ネメデルして、お祈りする。
水草で巻いて、植木鉢にきっちり詰めて花器に入れて水を満たすのだ。こうすれば水が上がり続ける。
木蓮の思い出、家族の思い
三ヶ月程度で根が張るという。水の中には「ネメデール」と栄養剤を入れた。多分、僕の「身体という細部のコロニー」には木蓮のコロニーにいるマイクロバイーオームが入り込んでくる。それが愛の正体である。
この木蓮は、庭が出来たときからある。母は高いところに花をつけるのが気に入らなかったが、毎年楽しみにしていた。2016年に母が亡くなり、隣家との関係もあり、切らなければならないと思いながら、ノコギリを入れる気にならなかった。
しかし、今年は切ることにした。
木にしても人にしても、その姿は単なるコロニーである。本当の生命はその内にある生命である。切った幹はこの木の根元にく。僕は庭で切った枝もはも、その場に置くことにしている。分解され、また根を通じてこの庭の一部となる。
雪折した松の枝を落としたが、根本においてまたこの松の身体の一部に入り込んでいく。そして新たな生命となるのだ。
ああ、ぼくが死んだら、燃やさずに庭に埋めてほしい。
「我死なば 焼くな埋むな 野にさらせ 痩せたる犬の 腹を肥やせよ」生命は循環する。
「幸運な病のレシピ」こそが、生命の食事なのだ。
医者や栄養士の言うことを訊いていたらうーんと長生きすることになる。毎年検査を受けさせられて、検査値を正常にするいい薬をもられ、同じような手術を繰り返して、施設で「経管栄養・胃瘻・輸液」で長生きできる。心だあとで医者は「よく頑張った」と褒めてくれるだろう。頑張って長生きしても仕方がない。僕はそんなことで頑張るつもりはない。
食事とセックスに庭いじり、いずれも生命を受け取る「律」は同じだ。
月桂樹は長く強く伸びる。下の方で茂る月桂樹は、小さな木を隠すのでハサミを入れる。捨てるのは忍びない。燃やすという事は生命を無に戻す。
高く伸びすぎるのでどうするか考えたが、紐を掛けて引いた。アーチになると良い。植物はその環境に姿を合わせる。無論、人もそうである。生命の「律」である。
生命をコロニーの形で判断してはならない。本当に大事なものは目には見えないのだ。
イチジクも随分枝を落とした。落とした枝は根本で生命に戻り、残っている木の内にまた生きる。
息子が100円ショップで買ったパキラが今では部屋の中に森を作っている。葉を鉢の根本において生命を循環させる。考えてみれば、花粉症も漆かぶれも「植物にも動物にもコロニーの形は関係なく」生命には共通の「律」が有ることを示している。
この木が愛おしいのは、僕の内側にパキラの生命が生きている。ぼくが庭に愛を感じるのには理由がある。
僕は、医者や栄養士というインチキ爺さんたちの「食物連鎖」という概念を乗り越えたいのだ。専門家の言う食事コードに従わない理由である。そして僕がピンコロ人生の終わりを迎えられたらそれがエビデンスである。
みんな、もっと、お花を大切にしよう。
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