タジン鍋は伝統的な型のシッカリとしたものを買おう。ピンコロ人生の頼れる味方。
この50年で大流行の『「病因」のない症状だけの「病」=(難病・リュウマチ・骨粗鬆症・致命的な臓器や組織の損傷』は従来栄養学・医学が相手にしてきた「感染・欠乏・中毒」に起因するものではない。
病因が特定できないから対処療法(破壊的治療)しか無い。
多くの人が食事に問題があると気がついてはいるが、足りないものや多すぎるものを探している。この20年の次々と新たな「解(仮説)」が見つかりながら、決定打ではないこと誤ったところを探している事を証明している。
僕の料理メソッドは、素材の種類や栄養素ではなく、「作る過程」を大事にする。50年前に家庭で作られていた様に丁寧に伝統的調理方法で作る。
商品化された食事は、コストを下げることが重要である。大量に短時間で作らねば利益は出ない。「乾燥・濃縮・抽出」工程を経て作られる。
食事を作る工程が圧倒的に変わってしまったということを論じる人は少ない。お店でワンコインで満腹を売るような食事が碌なものの訳がない。
家事を苦役のように考えて、金で食事を買って開放されたのは1980年代以降である。昨今の「レシピで食っている人」の情報を見ると、「簡単お手軽馬鹿でもできる」とまるで料理をする人をバカ扱いである。
肉野菜関わらず、生命あるものは、細胞の内に数しれないタンパク質と脂質が立体構造を維持して浮かんでいる。それを出来る限り維持した状態で身体の海に受け入れることこそが食事の意味なのだ。
一部の馬鹿な学者は食事を消化すると分子のレベルまでバラにして、身体に取り込んで再構築しているという。1960年代の教科書のとおりである。
私たちの身体の内側には数しれないマイクロバイオームが生きていて、多くの代謝物を共有している。細胞の内に生きて生を助けているのは「ミトコンドリア」だけではない。新たな発見が続いている。
出来る限り、生命を維持したままで身体に受け入れて、自分自身が再構築される。「輪廻転生」と言う言葉のほうが「食物連鎖」などという言葉よりしっくり来る。
植物にタンパク質がないなどというのは1960年代の誤った生命観である。「細胞生命=マイクロバイオーム」は細胞膜(脂質)に埋め込まれたタンパク質(受容体)、そして細胞間の言語としてのサイトカイン・ホルモン・ステロイド(脂質とタンパク質の組み合わさった物)に満ちているのだ。そして、それらの物質は熱に弱く多くの変種を持つ。
同じ気温、湿度の環境で育った「細胞生命=マイクバイオーム」はそれぞれの環境で異なったヒネリを持つ。そしてそのヒネリこそが重要なのだ。
かつて私達は同じ場所で生きる生命(=食材)を食べていた。それこそが身土不二と言う洞察なのだ。
「家族というシェルター」は地域に根ざした伝統でピンコロに生きる食事を作り、「強制」してきた。それは欲望を閉じ込める檻でもあったのだ。
1980年代に産業構造が大きく変わり、「家庭」という枠組みの意味が変わる。サラリーマンという時間を切り売りする奴隷階級が生まれ、「教育・医療・介護・政治」は外注化され金で買えるサービスとなった。
そして食事はドッグフードのようになったのである。
細胞生命同士の言葉のやり取りを盗み聞きする「健康診断の検査値」は食事によってたやすく「異常」を示す。しかし、それは「病」の原因ではない。
「身体が壊れていくプロセス」の生み出した結果でしか無いのだ。
かつては致命的な臓器・組織の損傷は最後に来たものである。きちんと守りが堅くピンピンコロリと死んだものなのである。
今や、管で繋がれて終わることのない薬剤の投与の10年の後で死ぬのだ。
医療キャピタリストにとっては、サプリメント売って、「よく効く薬」を売って、症状を終わらせない治療が金になる。
患者の苦しみは、多重投薬を生み、新たな薬を求めるのだ。
年金が沢山あってよかったね。
タジン鍋にも色々とあるが、蓋が十分に重くなければ蒸され方が足りない。厚手の陶器の鍋は温度を全体に回してジックリと蒸し上げる。
形はタジン鍋で、電子レンジに入れるプラスチック製のものなどもあるが僕は好まない。
50年前になかったものが今の病を生んでいる。冷蔵庫なども無ければどんな食生活をしているか想像がつくだろうか。水洗トイレとか長距離トラック、グローバリズムは食事を作るプロセスを決定的に変えたのだ。
これ以外にも、鮭のバター蒸しなども良い。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。