庭いじりの贅沢:蜘蛛の巣の季節
今年は蜘蛛の巣が多いような気がする。
勝手に僕がそう思っているだけなのだろうか。食料になるものが多いから蜘蛛も巣を張るのだ。以前に比べて、小さいカナヘビも多く見かける。少し前までは庭を歩くとボコボコに蚊に食べて頂けた。夏はガガンボも多く見た。蝶もよく舞っていた。
庭を歩く時は、小さい生命たちの邪魔しないように気をつける。蜘蛛の巣を上手く避けながら歩くようにする。やがて、蜘蛛の巣は綺麗になくなり、秋も終わりになる。
蜘蛛の糸は地面でマイクロバイオーム(粘菌・細菌・昆虫)の餌となる。生命の揺籃となるのだ。やがて、「僕」という「生命のコロニーの内側」にまで届く長いレンジの旅の始まりである。
今年はたくさん茗荷が採れた。食べ放題であった(笑)。茗荷が一足早く紅葉である。まあ、枯れるというのであろうか。
雑草はできるだけとらないでおく。目に余るものはとるが、その場においておくと生命が循環する。
蜘蛛というのは面白いものだ。長く見ていても飽きない。嫌うヒトは多いが、長い食物連鎖の大事なパーツなのだ。部屋の中に時折見かけるが、何を食べているのだろうか。
朝の蜘蛛は殺さないと言うが、昔は家の中に蜘蛛やアリがたくさんいた。「カマドウマ」のことを家では「便所場のコウロギ」と呼んで恐れたものだ。アイツラはぴょんぴょんはねて顔にあたったりする。跳ねているところに顔を出すほうが悪いのだろうが。今でも怖い。
蝶やミツバチは「花のセックス」を助ける。そして蜘蛛やアリは彼らを食して次の世代に生命を旅立た足せる。
決食物連鎖というのは、「捕食した動物、植物」を消化して栄養を取るということではない。「同化=自分の身体の一部に組み立て直す」「異化=大便・小便にする」の間に生物がいるという考え方は傲慢である。そもそも、「同化・異化」と言う考え方は私たちの目に見えるものでしかない。『独立栄養・従属栄養』と言う言葉も呆れ果てる。植物が「お日様」と「水+未メラル」だけで出来ていると思っている。1800年代の窒素固定の発見の時代の生命科学である。神の聖霊が生命を作っているという仮説否定することは出来たが、科学という仮説は目に見えるものしか信じないから遠くに行けない。
小さな雄が隅の方にいたりする。交尾のあと雌に食べられるという。ヒトもそうなら楽だろうなあ。おそらく単なる栄養の受け取り以上のものが有る。
ガレージというか物置の出入り口のとは僕の自作である。母が歩いてくる時に足を引っ掛けないようにカーテンレールを使ってぶら下がり型にした。
2015年の作品である。先日ぶら下げておいた針金が、全部切れてしまいつけ直した。
ローズマリーは雪が降っても青さを失わない。ちぎって、オリーブオイルにつけておく。ちらっと使う時は便利なものだ。底の方はバジルである。
ローズマリーが美味しいというのは、おそらくその人の身体というコロニーの内側に好む蟲がいるのだ。蜘蛛が死んで食物連鎖の内に生命を受けたマイクロバイオームがローズマリーの内に入る。
自然農法が素晴らしいのは、より多くのマイクロバイオームが内に入り込むからである。採れた作物を伝統的な手法で調理しなければ意味がない。工業的な「濃縮・抽出・乾燥」は生命のミイラを作る。
僕の食事メソッドは、生命が死んだ時点からできるだけ短時間で、内部の水(細胞の内側に「タンパク∵脂質」の立体構造の保持されたもの)を大事にした調理方法(伝統的な=その調理方法が美味しい)で食べるというものである。
1960年代の栄養学の分析した「栄養素」の量を測るのではなく、食べて美味しいものを作るのだ。火加減水加減一つで味は変わる。大事なのはプロセスなのだ。
2000年の春に生まれた鯉もずいぶん大きくなった。食物連鎖のひとつなのだが池で飼っている鯉は食べるに忍びない。売っている鯉は大好物だ。
気がつけば、百日紅の花がすっかり終わっていた。庭の奥の百日紅は大きくなりすぎたのでバッサリ行こうかと思う。切った後の枝はどうしようか、ステッキにでもしようか。