『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んで

 本書は、三宅香帆さんが書かれた読書論です。どうすれば、労働と読書が両立する社会を作ることができるのかを考察していく本となっています。
本の構成は冒頭に、問題提起があり、中盤に読書と労働の関係の歴史、最後に、働いていても本が読める社会を作るためにはどうしたら良いかが書かれています。
 私自身、本は読む方ですが、確かに、働いていると、本を読まなくなるなと思い、本書を書店で見つけて、手に取り購入して、一日で読み終えるほど、興味深い本でした。どのような内容の本であったかまとめたので書いていきます。

 日本人の近代的な読書習慣は明治以降に始まりました。文化的水準を保つために明治政府は「読書国民」の創出を国家の課題にしました。黙読の普及によって、「もっと目で読みやすい表記をつくりだす」という目標が出版業界に生まれて、そうして普及したのが句読点であるのです。大正時代のサラリーマン=物価高騰や失業に苦しむ人々、という図式が社会に定着していました。大正時代に本を読むことは、エリートが身につけているものを意味する「教養」と、ノン・エリートが実践するものを意味する「修養」に分けられました。現代の私たちが持っている「教養を身につけることは自分を向上させる手段である」という、うっすらとした感覚はまさに「修養」から派生した「教養」の概念によるものでした。そして、その概念は大正時代にエリート学生たちの間で生まれた教養を身につけることによって人格が向上するという一つの流行思想でした。
 高度経済成長期の長時間労働は、日本の読書文化を結果的に大衆に解放したのである。サラリーマンが増えた時代、みんなが働いているのだから、働いている人向けの本を出すのが、一番売れるはずだ。出版社はそのように考え。余暇時間の少ないサラリーマンに特化した本、つまり「英語力」や「記憶力」を向上させるハウツー本や、読みやすくて身近なサラリーマン小説を誕生させたのだった。戦後、学歴コンプレックスを埋めるために「教養」を求めた男性たちと同様の行動が1980年代になって、女性にも開かれた。1990年代、内面の時代から行動の時代へ、1990年代は、読んだ後、読者が何をすべきなのか、取るべき行動を明示する、1990年代以降は「自分のキャリアは自己責任で作っていくもの」という価値観が広がっていった。
2000年代、「経済の時代」の到来とともに。インターネット、つまり「情報」という存在がやってくる、1990年代から2000年代にかけて「好きなこと」「やりたいこと」に沿った選択学習、進路形成を推奨する教育がなされることになった。自分の好きな仕事をして、欲しい情報を得て、個人にカスタマイズされた世界を生きる、それが2000年代の「夢」なのだとしたら、「働いていると本が読めなくなる」理由は、ただ時間だけが問題ではない。問題は、読書という、偶然性に満ちたノイズありきの趣味を、私たちはどうやって楽しむことができるのかというところにある。
「労働」は楽しい遊びやアルバイトとは違う。そのことに気づいていないのが、おそらく2000年代までの日本だった。
 仕事以外の文脈を思い出すこと、そのノイズを受け入れること、それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか、本の中には、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいか」を知らない。何を読みたいかを、私たちはわかっていない。ないを欲望しているか、私たちはわかっていないのだ。だからこそ、本を読むと他者の文脈に触れることができる。自分から遠く離れた文脈に触れること、それが読書なのである。そして、本が読めない状況とは、新しい文脈を作る余裕がない、ということだ。自分に関係のあるものばかり求めてしまう、それは、余裕のなさゆえなのである。余裕を持てるような「半身で働く」ことが、当たり前の社会になって欲しい。それことが「働いていても本が読める社会」だからだ。
本を読むことは、自分から遠く離れた他者の文脈を知ることである、しかしそれは遠く離れているとはいえ、自分と完全に切り離されているわけではない。いつか自分に繋がってくる文脈なのかもしれない。働いていても働く以外の文脈というノイズが、聴こえてくる社会、それこそが「働いていても本が読める社会」なのである。

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