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韓国滞在記vol.4

学生の頃、他の大学の授業に潜り込んだことがありました。(もう時効でしょ)

当時年間20週程しか授業期間がなかった為、私は暇な学生でした。(2年まで。3年生からは地獄。)
夕方まで学校、夜はバイトという日々。
カリキュラム上は授業があっても教授の都合で午後の授業が休講で午前で終わりの日なんてのもあり、その日は夕方のバイトまで時間があったのです。
休講は一週間前に告知されることも多かったこともあって、そういう日は友人に誘われるがまま、いろんな大学に見学に行ったのでした。

勿論手当たり次第に潜入していたわけではありません。
友人が通う大学の話を聞いて、面白そうな授業を狙っては赴いていました。

某国立大学や某私立大学へそこの学生の様な顔をしながら入場。
通い慣れた校舎の様に練り歩き、恰も昨日もいた様な顔をして講義室に着席しました。

あの数学者も、あの経済学者も、あの政治アナリストも授業となるとテレビとはまた少し違った顔を出し、饒舌に語りました。
音大に通いながらも将来の不透明さに辟易していた私にとってそんな時間は暇潰しと現実逃避と知識増量という貴重な時間でした。

授業後は友人たちと感想を話し合いながら散策。

音楽や工具の音が聞こえてこないキャンパス。
ドレスや紋付袴、作業着を着ていないお洒落な学生たち。
綺麗な食堂やカフェ。
何より急に歌い出す変な奴がいない。

そして、どの大学も広い!!(東京藝大は恐ろしく狭いのです)

「普通の大学生」を体験していたのです。

因みに逆パターンはありませんでした。
普通の大学生に音大の授業は退屈ですし、教授に当てられでもしたら大変です。

そんなある日、後の人生に多大な影響を与える授業に潜入したのです。
それはある脳科学者の授業でした。
その授業で彼はこんなことを仰いました。

「人間の寿命を80年としましょう。すると生まれてから20歳までの時間の長さの感覚と20歳から80歳までの感覚はほぼ同じです。」

当時私は20歳になる年。
彼の説によるならば人生折返しということになります。

「そんなアホな!人生は長い。楽しく、面白く過ごしてやる!!」

そんなことを授業後仲間たちとゲラゲラ笑いながら話しつつもドキッとしていたことがつい昨日の様です。


vol.3の段階で到達したのは三日間の滞在のうち二日目の夜。
果たして命あるうちに完成するのか・・・
まるで遭難中に書かれた手記の様になってきました。※2024年4月現在

韓国に滞在していたのは2023年5月。
五ヶ月置きに更新してるじゃないか!
一年経ってしまうぞ!!

と慌てふためいております。
いやいや私の特技は短期集中!!


それでは始まり始まり〜

無自覚と無神経

滞在二日目。
朝から劉先生のレッスンを受けた後、vol.3では書き損ねたとても美味しい冷麺とめちゃくちゃ旨い餃子(語彙力)を食べ、ベートヴェンを観て、テハンノに移動してやたら旨いアイスほうじ茶ラテを飲み、HOPEを観てホテルに戻ってきた私。

お気付きだろうか。
そう、夕食を食べていないのです。

コンビニで簡単に済ませる?
いやいや、店員次第では喧嘩になる。
どこかに和樹と食べに行く?
いやいや、二夜連続で肉はちょっと・・・


ご存知ない方もいらっしゃると思いますが、私は若かりし頃、某劇団四季に在籍していた時期がありました。

当時の劇団四季は所属俳優が800人程。
その中には中国籍、韓国籍の俳優も多く在籍していました。
ただ、残念なことに当時の日本は中国、韓国との関係が決して良好とは言えないものでした。
強硬な姿勢を維持する両国に対して嫌悪感を抱く日本人も少なくなく、そしてそんな不穏な空気は劇団内でも少なからず存在していました。

一方多忙を極めていた私はそれに気付く事もなく、今やらなければならないことに追われ(六作品同時稽古とか思い返しても意味不明)、睡眠時間だけは何とか確保し台本を頭に叩き込むことに四苦八苦する毎日でした。

そして当時の私は共演者や共演予定者を見付けては稽古に付き合って貰うという厄介な人間。
そこに相手の出身地や国籍は関係ありませんでした。

「ごめん、読み合わせ手伝って!」
「ごめん、これ一緒に歌って!」
「ごめん、劇場まで送って!」

「ごめん」と言いながら思うがままに迷惑を撒き散らしていたのでした。 (皆ごめん)


全ては良い思い出です。
退団して15年が経った今でも嘗ての仲間たちとはSNSを通じて繋がっており、連絡を取り合うことも少なくありません。
彼等が日本に来た時に連絡を貰うと嬉しい限りです。

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