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田原イコール物語9「自分の投げたブーメランが刺さる」

非暴力コミュニケーションを学んだ結果、その裏返しとしての「暴力」の理解が深まってきた。一人ひとりが「源」から生きることを妨げているものは何か?という問いが生まれた。

教育システムに内在している暴力の正体を明らかにしていくことは、その中で仕事をしてきた自分自身の行動の意味づけが変わることだった。それを突き詰めていくと矛盾が表面化していき、自己解体へ至るだろう。でも、どうしても立ち止まることができなかった。自分の内奥の声が、進めと叫んでいた。

暴力と非暴力

生命の根源にあるいのちのマグマから突き上げる衝動は、生命の活動の源だ。その衝動が満たされれば快感情が生まれ、満たされないときは不快な感情が生まれる。それを手掛かりとして生命は学び、自分なりの生き方を形成していく。

一方で、生命の危機に関わる恐怖や、強い痛みなどに触れると、戦う、逃げる、死んだふり、といったパニック反応が起こる。不快を引き起こした対象と戦ったり、そこから逃げたりするが、どちらもできないときは、それを感じないように感覚をマヒさせる。相手にパニック反応を起こして、自分の思うようにコントロールするのが暴力だ。

学力テストで序列化しながら暗記教育を行う仕組みは暴力的だ。その暴力性を「フォアグラ型教育」という言葉であらわして図解するようになった。

フォアグラ型教育

フォアグラとは、ガチョウに強制的に餌を食べさせて脂肪肝にしたものを食べる料理だ。強制的に餌を食べさせられるガチョウの身体は、「もう食べたくない」という反応を起こす。しかし、フォアグラ生産者は、「口を閉じないで食べ続けるガチョウが偉いんだぞ」と語りかける。暴力にさらされた環境の中で、ガチョウは、自分の身体からの声に蓋をし、フォアグラ生産者の言葉を内面化して、その状況の自分を正当化する物語を作り出す。「そうだ。自分は偉いのだ。自分の肝臓は大きくて3万円の価値がある。あいつの肝臓は、小さくて1万円の価値しかない。」

フォアグラ型教育を成り立たせている強制力の根源は何だろうか?それを考えていくうちに、次のような図が思い浮かんだ。

社会のアメとムチの構造

社会に正解が設定され、それをうのみにして体現していくと、社会階層の上層へ行くことができる。正解にはまれないと社会階層の下層に振り分けられる。社会階層は収入と比例する。この仕組みの中で、「ちゃんとする=正解にはまる」ことをしないと生きていけないぞという社会的メッセージが、様々な形で発信されて不安を煽る。その環境の中で子供たちは思考を停止し、自分の源からの衝動の声を無視し、正解にはまろうと競争する。そういう仕組みなんじゃないだろうかと思った。

正解によって生じる欠落と余剰

標準化された正解があるから、そこに対して欠けているところや余っているところが生まれる。それを否定すると自己肯定感が下がっていく。学力テストで序列化すると、他者との比較によって自分を位置づけるようになる。自分は大したことがない奴だと感じるようになる。

教育システムが内在する暴力性を見つめて批判するブーメランは、大学受験を支援する物理教育を仕事にしていた自分自身へと返ってきてグサッと刺さった。

「お前のやっている教育だって、同じだろ」という声が、自分の内側で響いた。

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