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成果とは打率である(トーナメント編)

僕が好きな言葉で「成果とは打率である」という言葉がある。
これはP・F・ドラッカーの言葉で、当時高校生だった僕はとても感銘を受け、それからもう何年経ったか分からないが今でもことあるごとに思い出すワードの一つだ。

ドラッカーの「マネジメント」の中で成果は以下の様に示されている。

成果とは何かを理解しなければならない。成果とは百発百中のことではない。百発百中は曲芸である。成果とは長期のものである。すなわち、まちがいや失敗をしない者を信用してはならないということである。それは、見せかけか、無能なこと、くだらないことにしか手をつけない者である。成果とは打率である。弱みがないことを評価してはならない。そのようなことでは、意欲を失わせ、士気を損なう。人は、優れているほど多くの間違いをおかす。優れているほど新しいことを試みる。

P・F・ドラッカー著「マネジメント」より

僕はこれを幾らか自分勝手に解釈と省略をし、
「成果とは打率である。成果とは長期のものである。」と参考書やノートの一ページ目に常に書いて自分を奮い立たせ、そして戒めてきた。

トーナメントにおける「成果」とは何か?

トーナメントにおける「成果」が何かと言われると、万人において確定的に示せるようなものがあるわけではないような気もする。

思いつくものとして、それが念願の「タイトル」であるのかもしれないし、もしかしたら「ROI(収支)」であるのかもしれない。

はたまた「できるだけ安く遊ぶ」ということなのかもしれないし、「新しい友人をつくること」なのかもしれない。

ここで僕が言いたいのは、人それぞれにおいて求める「成果」は多様であって、そして不可侵でもあるということだ。

だからこのnoteでは「僕が思う成果」について話すが、それが唯一の正解であるわけでは当然にないし、そうではない意見ももちろん尊重されるべきである。当然悪意や嘲笑する意図を持っているわけではない。

僕が思うトーナメントにおいての「成果」

ここから先はあくまで僕が思う「成果」であることを念頭に置いて読み進めてもらえれば幸いだ。

僕が常日頃から思うことは「少しでも生涯収支を向上させたい」ということである。
もちろん生涯収支を切り分ければそれは短期成績の積み重ねであって、短期成績を軽視するものではないことが分かってもらえると思うが、少なくとも1トーナメントでの結果に一喜一憂しすぎないようにしたいとは思っている。
※ただし実際にするかしないかで言えば「する」。

というのもあまりにトーナメントというゲームは「実力が短期成績に寄与しにくいゲーム性」であるように思う。

もし私たちが目指すものが優勝であるならば、スタックを「増やし続けること」が絶対に求められる。
少なくともスタートに配られたチップだけでは優勝することは絶対にできない。

そんななか、もしあなたが正しく相手のエクスプロイトしたとしても、勝率100%の勝負を繰り返しながらチップを増やし続けるということは不可能であることは理解しやすいはずだ。

そのため私たち自身も一定のリスクを負いながら、リスクリワードを勘案しアクションを決定していくこととなる。

そして実際にその結果でチップが増えることもあるし、ゲームから私たちが退場させられることもある。

勝率が100:0の勝負を数多く実行できたり、あるいはこちらがゲームから除外されることなく割の良い勝負を繰り返すことができるのであれば、それはこのゲームにおいて「スキルエッジの介入幅」が大きいと言っても良いように思うが、残念ながら実際のゲームではそうではない。

となると、仮に私たちがフィールドにおいて絶対的な強者として存在したとしても、「直ちにこのトーナメントで実力を正しく発揮できるか?」という意味では「少し難しそうだ」と僕は思う。

だから僕が思う成果とは、直ちにこの目の前で行われているトーナメントでの結果を指すのではなく、何度も何度も参加していって積み重ねられた結果の中で初めて確認できるかもしれないし、もしかしたらできないかもしれないものが「トーナメントでの成果」と考えている。

もし実力が正しく反映されるなら

もしトーナメントにおいて、囲碁や将棋のように実力が正しく反映されるとしたら、きっと真の強者のROIは+9999999999999%となりカンストするように思う。きっと僕らが入り込む隙は存在しないから、エントリー費をドブに捨て続ける結果になることも想像できる。

そうならないのはやはり真の強者であったとしても、今この一部分だけを切り取れば、差は存在するものの影響は軽微であるからに違いない。
これはあくまで僕がそう思うだけではある。

次のトーナメントを苦しくしないために

私たちはどうやっても「ターゲットトーナメント」を決めてしまうような気がする。
きっと私たちには一定の闘争本能だったり賞賛されたいという願望が備わっていて、それを満たすために何らかの目標を良くも悪くも立ててしまっているはずだ。

もちろんそうあることは全く問題ないし、誰かに否定されるようなことでもないのだが、考えたいのはそれによってあまりに自分が苦しくなっては元も子もないということである。

そして僕が思う危惧は、仮に目標を達成してもしなくても落とし穴が存在していて、なぜかこんなにもトーナメントが好きなのにどんどん苦しくなってしまう可能性があることだ。

一球入魂したトーナメントで勝てなければ当然に悔しいはずだ。
それが正しく社会的に昇華されれば良いのだが、卓をひっくり返したり、会場で奇声を上げているようではあまりにも三下ムーブすぎる。

あるいはバーンアウトしてしまってもなんだかもったいないような気がする。

逆に目標が達成されたとしてもこの危惧感は存在していて、ただの短期成績の結果でしかないのに自分の実力の下限がその成績にセッティングされてしまうかもしれない。

そうなった時にこのゲームは本当に苦しいものになってしまう。

きっと「勝てることが当たり前で、負けたら下振れ(あるいは相手が悪い)」となってしまうことだろう。

こうなった時には最大限嬉しいはずの入賞や優勝が当たり前になってしまっていて幸福度を感じられないのにも関わらず、負けたときの負の感情だけが積み重なってしまうことになる。

だからもしこのゲームをもっともっと長く楽しみたいのであれば、「成果とは長期のものである」と考えることでいくらか延命ができる

(まとめ)長い目で自分を評価する

「成果とは打率である。成果とは長期のものである。」

自分を信じてあげられる一番のパートナーはきっと自分自身であると思う。
当然に自分を正しく評価できるのも自分自身であることだろう。

良くも悪くも、自信を無くしたり、あるいは慢心してしまうゲームではあるが、そんな中でも自分を信じて、且つそしてそれらを長期的なものとして評価してあげることが出来ればこのゲームはもっとおもしろいものになるのかもしれない。



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