博士過程進学のつもりだったのに、なぜか外資コンサルに行くことになった話
僕はもともと博士課程進学を目指していたので、新卒で外資コンサルティング会社に入るなんてことはまったく予期していなかった。「この会社だったら就職してもいいかな」と思えたいちばんの理由は、学生から見たアクセンチュアはとにかく自由で面白そうに感じたからだ。
内定をもらうまではいろいろな紆余曲折があったので、せっかくなのでここに書き残しておこうと思う。
4年生になっても誰も就活をしない特殊な環境
大学4年生になる春(1999年)。東工大に通っていた僕は、周囲が当たり前に大学院進学をするという環境にいたので、気付いたころには、いわゆる就職活動の時期はもう終わっていた。
東工大の大学院進学率は90%以上と高く、理系とはそういうものなのだと思っていたが、今思えば相当特殊な環境だったと言える。
東工大では4年生になると研究室に所属するわけだが、研究室同期は自身を含めて4人、うち3人が大学院に進学した。学部の成績が中の上くらいであれば内部推薦が得られるのだが、あまり成績が良いほうではなかったので、4年生の夏に入学試験を受け、無事に大学院への進学が決まった。そのほかに、留学生が1人、他大学から進学した1名を加えた計5名が大学院での研究室同期となった。
そして、大学卒業後の2000年夏、卒業論文を都市計画学会に投稿し査読が通ったこともあって、次の論文を書くことに対する興味が少しずつ高まっていった。
ちなみに当時の卒論はこちら。
そもそも幼少時代から、「協調性がない」とか「社会性がない」、「会社員は向いてなさそう」などと言われ続けていたため、公言はしていなかったが、なんとなく博士課程に進もうかなと考えていたし、周囲もなんとなくそう思っていると勝手に決めていた。
博士課程進学をやめたのは、友人の一言だった
そんなこんなで、そろそろ博士課程への進学のことを周囲に打ち明けようかなと思っていた修士1年夏頃、研究室の同期(佐野浩祥・現東洋大学教授)に、先に博士進学を宣言されてしまった。あまのじゃくな性格でもあったし、消去法的な選択だというのも薄々自覚していたので、博士過程進学を公言するのが嫌になってきた。
これをきっかけに、後回しにしていた将来のことを、少し真面目に考えるようになっていった。
もちろん研究には知的探求の面白さもあったが、卒業論文を通じて分析対象エリアの一つでもあった「西荻窪アンティーク街」のケースを知ったことで、自身で街に入りこんでまちづくりに関わることの面白さや可能性を感じはじめていた。この頃から、起業も視野に入れたまちづくりのキャリア構築のようなものを真剣に考えるようになったのだ。
で、なんか急に就職活動する気になった
そんなこんなで、博士進学をすっぱりやめて、(いきなり起業なんて無理だし)就職活動をしてみようと思った。修士1年の秋に渡邉貴介先生に相談したら、「OBに電話してやるから、話を聞いてみたい会社を挙げてみろ」と言われ、デベロッパー、広告代理店、商社、出版社などなど、聞き覚えのある会社の研究室OBを紹介してもらい、片っ端から会いに行った。就職活動を始める前に、それぞれの会社でどんな仕事に関われそうか、自分の興味と合いそうかということを相対化するよい機会になった。
テストマーケティング的な意味合いもあったので、このOB訪問ではいつも、裏原宿の話から始まって、自身の研究テーマの話、将来は自分自身で起業し、自ら地域に入り込んでいってまちづくり(今でいうエリアリノベーションみたいな感じ)をしたいと話した。
OB訪問で「起業したいです」と言ったら怒られた
いろんな先輩に会ったが、その多くは「何言ってんだお前」というような反応。特に多かったのは、「うちみたいな会社(デベロッパー)では、起業したいという話はしないほうがよいかも?」とか「まちづくりをしたいなら、そもそもうちの会社(商社)じゃなくてよくない?」みたいな感じ(笑)。それでも、少なかったけれど面白がってくれる先輩は何人かいて、いつか起業してまちづくりをしてみたいという想いが次第に強くなっていった。
アクセンチュアとリクルートに絞った理由
就職活動を意識して、当時よく日経新聞やビジネス誌を購読していたのだが、そのなかで「人材輩出企業」と紹介されることが多かったのが、リクルートとアクセンチュア(2000年当時はアンダーセンコンサルティング)だった。OB訪問で、自身の妄想を面白がってくれた先輩の一人がリクルートの人事課長だったこともあって、就職活動はこの2社をターゲットに絞った。
この方には、リクルートの社員を何人か紹介してもらい、話を聞かせてもらった。みんな魅力的だったし、自身の仕事に誇りを持っていることを強く感じた一方で、なんだか自身の性格とのギャップのようなものを感じてしまった。言い方は難しいけれど、みんな陽キャというか、なんかオレにはこの会社向いてなさそう……と思ってしまったわけだ(笑)。
自身が就職活動をした2001年春は、いわゆる就職氷河期といわれる頃。しかも、インターネットを使った就職活動が始まったばかりで、あまり情報がなかった。ちなみに大学4年生(1999年春頃)のときには、就職活動はしなかったが、実家には通称“電話帳”と言われるダンボール箱が届いたことを覚えている。受け取った学生は応募ハガキを切り取って、手書きでエントリーしていた時代。修士2年(2001年春頃)のときには、リクナビが始まっていたので、まさに就職活動が変わった節目だと言える。
学生から見たアクセンチュアはとにかく自由で面白そうに思えた
アクセンチュアが外資系でコンサルティング会社だというのは知っていたが、先輩もいなければ、ネットで調べても結局何をやっている会社なのかよく分からないまま選考が始まってしまった。ただ、OB訪問で千本ノックを受け続けたことで少しは人に話せるようになっていたのか、面接でまちづくり妄想トークを一貫して唱え続けていたら、無事に内定を獲得してしまった。
外資系ということもあって、2001年1月には1次選考がスタートし、2月中旬には内定をもらい、いわゆる就活は早々にやめてしまった。取り立てて、コンサルティング業界を志望していたわけでもなかったので、業界や競合他社のこともほとんど知らないまま入社することになった。
とはいえ、「まちづくりするために、3年ぐらいで辞めて起業したいっす!」という若者を受け入れてくれる会社もスゴイ。しかも、1次面接は若いマネージャー(おそらく20代)で、アクセンチュアという会社がとても自由そうに見えたのを覚えている。
その後、自身がマネージャーになったときに採用を担当したことがあったが、学生が将来何をしたいのかとか、これまで何をやってきたのかなんて、まったく気にしていなかった。志望動機や、実現したい未来なんていう質問は、地頭とコミュニケーション能力をはかるための会話の糸口にすぎないのだろう。
実際に入社してみて感じたのは、同期はもちろん、入社後に接する社員の多くが自身と同じように、コンサルティング業界志望ではなかったこと。将来やりたいことを胸に秘め、そのためのスキルを身につけたいという人も多かったし、ただ給料が良さそうとか、面白そうだったからみたいな人もいた。そして、そんな自由なカルチャーが、自分にとってはとても心地よかった。
ちなみに現在でも交流のあるユニークな同期はたくさんいるけど、中でも少し変わり種は四方健太郎とか、山下悠一ですかね。一言では言い表せないので、興味がある方は是非彼らのnoteも読んでみてください(笑)。
(おわり)