実は建築家になりたかった?という話
とりあえず、どんなヤツなのかを知ってもらいたいので、しばらくは前フリです。
まずは大学に入るまでの話。
子供のころは実は建築家になりたくて、大学受験では建築学科のある大学を志望した。高校は桐朋という国立にある進学校に通っていたが、自由な校風で、浪人するのが当たり前(7割くらいは浪人していたと思う)ということもあって、1年じっくり浪人生活を満喫した。要は現役ではどの大学も受からなかった(笑)。
なぜ建築家になりたかったのかといえば、小学校入学の少し前(たぶん1980年前後)くらいに実家の建て替えがあって、設計したおじさんがなんかカッコよかったのだ。
「新しい住まいの設計」, 扶桑社, 1982年7月号, pp.55-58
このおじさんに出会ったおかげで、小学生の頃に「なりたい職業は?」と聞かれれば「建築家」と答えたし、小学校の卒業文集に、皆が「プロ野球選手」「お花屋さん」などと子供らしい職業を挙げるなかで、誇らしげに「建築家」と書く、小生意気な子供となった。
ちなみに、自身が通った桐朋という高校は、自由な校風が理由なのか、他にはあんまりない工芸という授業があったし、美術とかアートに触れる機会が多かったからなのかはわからないけど、同窓生にはやけに建築系の人(特にアトリエ系設計事務所出身の建築家)が多い気がする。
同級生だけでも、古澤大輔(建築家・日本大学建築学科准教授)、坪井宏嗣(構造家)、三浦朋訓(建築家・安藤忠雄建築研究所出身)、山縣武史(建築家・山本理顕設計工場出身)、松田雄二(東京大学建築学科准教授)など。
で、ようやく大学に入学した。
1年の浪人生活を経て、第一志望だった早稲田大学の建築学科には落ちたが、第2志望だった東京工業大学の第6類というところに1996年に入学した。東京工業大学第6類は、2年生に進級する際に、建築学科だけではなく、土木工学科、社会工学科に振り分けられる。
入学式の日になんとなく気の合いそうなやつと仲良くなって、その後1年間は、彼らと一緒に過ごすことが多かった。メンバーの構成は男7人、女4人という感じ。今思えば、なんか青春ドラマのようで微笑ましい。
特にこのメンバーの中でカップルが生まれるような恋愛ドラマはなかったが、校舎内で肝だめしをしたり、ロケット花火の打ち合いをしたり、第2食堂(通称にしょく)の前で夜通し飲み会してみたりと、いわゆる学生っぽいことを一番した時期だったような気がする。ちなみにこの仲良しグループに、現在は建築家として活躍する長谷川豪もいた。
第6類の1年生の授業のなかには、図学製図という講義があった。その講義の初日、教壇にたまに見かける東工大らしからぬ風貌の若者が立ち、我々仲良しメンバーはざわついた。当時、メンバーの中で、「なんかジャミロクワイみたいな帽子をかぶったやつをよく見かけるんだけど知ってる?」みたいな話をしていたのだが、まさにそのジャミロクワイ兄さんが図学製図の講師として教壇に立っていたからである。
当時の東工大といえば、オタク比率が国内でもトップクラスに高い大学(以下参照)。そんな大学で、少しでもおしゃれな人を見かけると、なんとなく気になるわけである。そう、このお兄さんこそが、後に建築家として世界に知られることになる塚本由晴氏だったのだが、まだ大学に入学したばかりの若者たちにとっては、なんかシャレオツな大学の講師という認識にすぎなかった。
理系専門の大学では日本最高峰であるが、理系特有の合コンの弱さに関しては『合コンしたくない大学第一位』[不要出典]と他の大学の追随を許さない。
https://ansaikuropedia.org/wiki/東京工業大学
我々が馴れ馴れしかったからなのか、塚本氏が暇だったからなのかはわからないが、「今度飲みに行きましょう」という話から、長谷川豪氏を含めた男4人で、なぜか塚本氏の家に泊まりに行くことになった。当時、塚本氏は自身が設計したハスネ・ワールド・アパートメントの一室に住んでおり、パートナーの貝島桃代氏は留学中。一人暮らしで、単に遊び相手が欲しかっただけなのかもしれないが、大学に入学したばかりの建築学生にとっては、とても貴重で贅沢な経験だった。
ちなみに、大学に入ったばかりの若者たちにいいところを見せたかったのか、それとも普段からそうなのか、夕食のメニューはチーズフォンデュとワインで、それが強烈な記憶として残っている(笑)。
長谷川豪氏撮影(写ってないから多分。。)
で、建築学科には行け(行か)なかった話
東工大では、2年生になる前に、本人の希望と1年生の成績で進級する学科が決まってしまうわけなのだが、いつも一緒だった仲良しメンバーは、皆希望通り建築学科に進級していった。テスト前、みんなの「勉強していない」を信じたオレは、人気があった建築学科へ進級することは叶わなかったのである。
少し話を戻すと、自分を含め同級生のほとんどは建築学科に入りたくて、第6類に入学してきた。なので、大学に入学したばかりの頃から、建築トークをしている学生が多かったが、そんな建築トークに全く興味が持てないことに、入学早々気づかされたわけである。もし勉強しなくてもそこそこいい成績をとってしまう要領の良さを持ち合わせていたら、建築学科に進級していたはずで、結果的に社会工学科に進級することになって良かったと今ではポジティブに捉えている。
ちなみに、この建築トークの中心にいつもいたのは、建築家として活躍する藤村龍至氏だった。早々に方向性を軌道修正できたのは、藤村氏のおかげだと言っても過言ではない。まだこのお礼を言えていないので、今度会ったら伝えたいと思います(笑)。
もみやま