マンホールからベンガルトラまで その21
怖がり屋
残念な出来事にしばらく呆然としてしまっていたが、いつまでもそうしていても仕方がない。
ラジオ体操でちょっと体を動かして気分を変える。イッチニーサンシー。さあ、山を降りるとしよう。
聞いた話によると違うルートから降りれば渡し船に乗ってフェワ湖を渡ることが出来るらしい。
どこかなっと。
あっちに湖があるからその方向に降りていけばいいはずだけど。あ、ここかな。降りていけそうな道を発見。
降り始めると道が急に険しくなる。本当にこの道で合ってるのか?
何か動物も出てきそうだなと注意して周りを見ながら歩いていると、黒い物体を発見。
鳥の巣みたいなかたまり。
これは毛か?動物の毛が抜け落ちたものかなと最初思ったけど、見覚えがあるぞ、この形。
うーん。
黒い鳥の巣みたいな物体・・・。
あーあ、虎の糞だ!
げげっ!?
・・・。思考と体が一瞬固まる。
うそ。
虎がいるのか?
え?
こんな人里近いところなのに?
急に緊張感が高まって鼓動が速くなる。
あの時はガイドが守ってくれてたけど、今は完全に一人ぼっちだ。
い、いや。例えいたとしても人間を襲うようなやつなら観光客だらけのこの土地ではもっと危険視されていてもおかしくない。
きっと虎は臆病だから人間の気配を感じたら逃げて行っちゃうんだな。うん、だから大丈夫だよ。
きっと。
と、自分を納得させる。
さっきよりも注意深く周りを見渡しながら山道を下っていく。
森の奥の影が虎に見えてくる。
隠れてこちらを伺っているんじゃないか。
木の影が今にも動き出しそうに思えてきた。
下から二人組の老人夫婦が登ってくるのが見えた。
よかった、とりあえず道は合ってるみたいだ。
白人の老人達は、はあはあ息を切らせている。観光気分の老人にはキツい山道だよな。
お互い「ハロー。」と挨拶して、私は「テイクケアー。」(気をつけてね)とだけすれ違う時に言葉を添えた。
わざわざ足を止めて詳しく言うようなことでもあるまい。
虎がいるから気をつけてなんて。
確信があるわけじゃないし。
・・・でも、あのフンは虎のものと同じに見えた。
タッタッタッタッ、ダダダダダダ!
知らず知らずのうちに急ぎ足になってしまう。
あらゆる捕食動物は走るものを追いかける性質を持つという言葉が頭をよぎる。
走ったら余計危ないか?でも足が止まらないよーう。
思わず一気に山を駆け降りていた。
足がもつれて転びそうなのをなんとか踏みとどまりながら。
そうか、転がるように山を降るとはこういうことをいうのだ。
目の前には湖が広がり、渡し船のおじさんがいるところまで来てようやく息をついた。
はあはあはあ・・・。
ここまでくれば安全だ。
ふう。でもよく考えれば虎なんかいたら注意書きの看板の一つくらい立てるだろうし、考えすぎかもな。
何かの間違いだろう。私の記憶違いだったんじゃないか。そんな気がしてきた。
船のおじさんはニコニコしてるけど、全然喋らない人だった。外人さん相手だからそんなものか。
よく考えたら船のおじさんも虎のいるような危険なところで一人で待機するような商売したりしないだろう。全く、私の思い込みにも困ったもんだ。
料金の400ルピーを払って小船に乗り込む。結構高いな。
でもここまできたらしょうがない。料金が高いからまた来た道を戻るなんてあり得ない。
船が岸を離れていく。
振り返ると徐々に視界が広くなっていった。
山の上には白い仏塔が光っている。
その下に私が降りてきた山道が少し見えた。
あの山陰には虎が潜んでいたりするんだろうか。
やっぱり気になるのでこのおじさんに聞いてみよう。
船を操るこのおじさん、喋らないので英語が話せるかわからなかったけど、虎のことを聞いてみることにした。
「あの山、虎いますか?」出来るだけわかりやすい英語で話す。
「ノー」おじさんは笑いながら答えた。
よかった。やっぱり私の考えすぎだったみたいだ。
そうだよね、おじさんもそんなところで働けないよな。
ははは。私がバカだった。恥ずかしい。
「でもヒョウいる。」おじさんは当たり前のように言った。
ワッツ?
虎はいないけどヒョウはいるんかい⁉︎
おじさんは遠くを見ながらまた笑っている。
そっか、ヒョウか・・・え、ヒョウ?
でも虎じゃなくてよかった。ヒョウならまだなんとかなる気がする。体の大きさが全然違う。十分危ないけどね。
あの糞はヒョウのものだったんだと考えるとようやく納得ができた。
同じ肉食動物のだから似てたんだ。謎が解けたのと虎がいなかったとわかったことで体から力が抜けてきた。
あー、安心したらあんなにビビってたのがバカみたい、こんなんで動物カメラマンなんてやっていけるのかしら、はーあ。
見上げると船の上にはでかい青空がポカンとあった。
湖の上って空しか見えないんだな。ああ、気持ちがいい風が吹いてたんだ。いま広いフェワ湖にいるのはこの船だけだった。
湖、貸切じゃん。
遠くの方にはもこもこした白い雲が浮かんでいて少しずつ形を変えていく。
お、虎に似てる雲を発見。
白い雲の虎がこっちを見て笑ってるように思えた。