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「悲しい」「つらい」死んだらそんな感情すら抱けない。

「嬉しい」「楽しい」がプラスとするなら、
「悲しい」「つらい」がマイナスになるだろうか。

そうともなれば、『死』とはどの立ち位置になるのだろうか。

マイナス側の最大値になるのだろうか。
それとも、プラスやマイナスでは測れない何かになるのだろうか。

悲しくて、寂しくて、死んでしまう人が多すぎる一方で、
友人や家族が死んで、悲しくなり、つらくなる人もいる。

マイナスが、マイナスを生んでいるのだろうか。

この世には、憎み、恨んでいる人が死んで、喜ぶ人もいる。

プラスが、プラスを生んでいるのだろうか。

自分が死んだ時、それはマイナスになるのだろうか。
はたまたプラスになるのだろうか。

プラスになるのであれば、死ぬのもひとつの手なのかもしれない。
マイナスになるのであれば、きっと死ぬべきではない。

『死』とは何なのだろうか。
『死』とは『無』だ。
昔、漫画で同じようなセリフを聞いたことがある。
「『死』は『無』」とはよく言ったものだ。

『死』は何色にも染まる。
誰かの『死』は様々な感情を生む。
悲しんでいる人がいるかと思えば、
オセロのようにひっくり返って裏で喜んでいる人もいる。

全ての死に悲しめるほど、人間は良くできていない。

死んだ人間は『無』になる。
何も出来ないし、何も感じられない。
どこかで「悲しい」や「つらい」という感情を生むことはできても、
死人が「悲しい」や「つらい」と感じることはできない。

当然ながら誰かに何かをするということもできない。
「誰かの中で存在し続ける」という考えに対しては、
残念ながら「それはただの妄想だ」の一言で片付いてしまう。

「悲しい」や「つらい」と感じられない状態を『無』とするのなら、
「悲しい」や「つらい」と感じられる状態は、
『無』から『有』に変わった状態である。

であれば、「悲しい」や「つらい」という感情にも、
大いに価値があるのではないだろうか。

死のうか迷っている人がいたとして、
その人にも、今、この瞬間、ちゃんと価値があるのではないだろうか。

引いて見れば当たり前のことを綴っている。
死に際の人間は、そんな当たり前の文章に救われる。
少なくとも僕はそうだった。

当たり前が当たり前でなくなった人に当たり前のことを伝え、
届けることがどれだけ救いとなり、尊いことか。
それは死の選択を視野に入れた人間にしか理解ができないだろう。

もう一度、立ち返ろう。
「嬉しい」「楽しい」がプラスとするなら、
「悲しい」「つらい」は、マイナスになるだろうか。

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