「ピンとこない」の中にある傲慢さ
「ピンとこない」って便利な言葉だなと思う。その通りではあるのだけれど、目の前にあったはずの数々の言葉にしなければならない諸問題を覆い隠してはこの一言に集約してしまえる。
「悪いわけではないのだけれど……」という歯切れの悪い会話の、深めるべきだった解像度をそのままに、そうなのだと納得してしまえる便利な言葉。恋愛において使うことが殊多いと思うのだが、マッチングアプリを使うようになってから言うことが増えたなあと感じる。
「恋人つくるぞ!」と一念発起してマッチングアプリを始めてから3年が経ち、これまでいろいろな人と会ったけれど、友人や上司と飲んでいるときにどうなのかと訊かれると『なんかピンとこなくて……』と言うこと数知れず。
その詳細を述べていくと顔がタイプでなかったとか、好きな声でなかったとか、価値観が合わなかった、気になってしまう行動があったとか。結局、どんな人がタイプなのかと訊かれて、吉岡里帆みたいな人がタイプだと言うと「理想が高すぎる」と一喝されるまでが一連の流れである。タイプを訊かれたから理想を答えたまでなのに、そんな、酷い……!(とはいえ書き出してみるとクズだな)
それで。先日、その『ピンとこない』の正体について書かれている小説を読んだ。辻村深月さんの『傲慢と善良』。
婚約者の女性・坂庭真実が失踪したことをきっかけに、主人公・西澤架は彼女の過去について関係する人々を訪ねて聞いていく。その中で、真実が過去に通っていた結婚相談所をやっている小野里という女性が架にピンとこないの正体について説くシーンがある。
この言葉を読んだとき、自分に刺さった矢は鋭かった。自己肯定感は低く、謙虚に見えるのに、自己評価額だけはとても高い。そうした点が現代の恋愛、婚活において多くの人が抱える「傲慢さ」なのだと小野里は語る。まさに自分もそうだった。
もちろん、対人なので複雑に絡み合う要素を一つの点数だけに集約して判断できるのかは分からない。「ピンとくる」について、恋愛系の言説においてほかにも例えがあるので、これが必ずしも正解でないのもわかる。
いろいろな考えが頭のなかを駆け巡るが、自分はこのことにおいて、過去の強烈な思い出が引きずりだされる。
高校1年生のときだ。夏の終わりだったと思う。久しぶりに会った中学の同級生から告白された。
それまで告白された経験はおろか、誰とも付き合った経験がなかった自分はその事実に舞い上がり二つ返事で付き合うことになった。しかし、日が経ち冷静になると、その相手のどこが好きなのか分からない自分に気づいた。
しばらくして、噂を聞きつけた同じ中学校出身の女友達から「どうして付き合ったの?君ならもっといい人と付き合えたと思うけど」と言われた瞬間にいろいろと悩んでいたことが弾けて、「やっぱり、そっか」と言ってしまった(ちなみに『傲慢と善良』には似たようなシーンが出てくる)。
それからというもの、自分はどこかで相手のことを、この人のことを友人に紹介したときに(コミュニティー内恋愛であれば、この関係を公表して)周りから認められるかと考える癖がついた。
結局のところそれは「友人から見たときにどう思うか」という視点にすり替えた、自己評価額と見比べた上で相手を品定めする行為なのだと『傲慢と善良』を読んでいて感じた。
生々しくて、最低な話だけれども。
それから12年、自身の内面に傲慢さをスクスクと育てながら生きてきてしまった。自己肯定感は低いのに、自己評価額だけが高騰し続けるアンバランスな人間の出来上がり。
どうしたものか。
自己肯定感を高めようなんて自己啓発めいたメッセージには辟易としてしまうし、努力をしようというマッチョな思考になれる自信もない。かといって、誰でもいいわけではない。すぐには、その傲慢さを解消する解決策は見当たらない。
面倒だが、このアンバランスさに折り合いを付け続けながら今日も明日も生きるしかない。この本のように最後の最後で、ターニングポイントが訪れるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
一瞬、何かを掴んで言葉にしかけて、次の瞬間またするりと抜けていってしまう。この先の感想は生きる中で人と対峙して、自分で言葉を拾っていくしかないのだと感じる一冊だった。