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過去は何によって変えられるのか

今日は朝から部屋に籠って読書をしていた。秋に買って、途中まで読んでたもののリュックの中で中途半端にしていた「マチネの終わりに」。そろそろ結末まで行こうと思い、一気に読み進めた。

本の帯に“たった三度会ったあなたが、誰よりも深く愛した人だった”と書いてあり、買った時から「それはどういう意味なんだ?」という思いと「いや、幾ら何でもそんなことはないだろう」という思いが半々にあったが、読んでみて深く納得した。

もともと、1年4ヶ月ほど前に仙台で友人とお茶をした時に平野啓一郎さんの著書「私とは何か-「個人」から「分人」へ-」の話になり、読んだことはなかったが、その子の話を聞いていて内容に共感するところがあった。その時に小説「マチネの終わりに」もいいですよと薦められた。

タイトル自体は聞いたことがあったが、内容は全く知らなかったので「どんな話なの?」と聞くと「“過去は変えられる”ってワードが話の中に多く出てくるんですよ」とその子は言っていた。

それから、結局買わずに1年が過ぎていたが、秋頃映画が公開されたあたりに「そういえば…」と思い出したようにAmazonで注文した。

内容は、クラシックギタリストの蒔野聡史と国際ジャーナリストの小峰洋子の恋愛模様と、その周りも含めた人々の人生の物語。1年4ヶ月前に友人から「東京、パリ、ニューヨークが舞台なんです」と言われ、随分と展開する舞台が広いな……と思ったことを覚えているが、読み始めてみて嗚呼そういうことか…と理解した。

おとといまで読んでいたところで、洋子がもともと交際していた相手との婚約破棄までして蒔野を愛することを決断していたのを見て「ひゃああああ(語彙力)」と思っていたし、こんなにお互い愛する人どうしで生きていけるならもう物語終わってもいいんじゃない?あと200ページどうする気なの???という気持ちでいた。笑

しかし、昨晩読み進めると、蒔野と洋子は突然のできごとをきっかけに別れを余儀なくされ、物語の結末まで5年もの間再会することはなかった。あまりにどんでん返しすぎて、冷静な僕は「まあ、小説だしこうもなるよね」と思う一方で、ピュアな僕は「ええええええ???今までの僕のきゅんを返してよ!!!」と心の中で叫ぶのであった。

まあ、僕の心の叫びはどうでもいいとして、今日部屋に籠って読み終えてみてとてもとても複雑な気持ちが湧き出ている。最初はこのnoteだって「雑記」として「部屋に籠ってマチネの終わりを読んだ」くらいに留めておこうとしたのに、もはや感情の溢れる読書感想文と化している。笑

恋愛模様に対する僕の中で湧き出るエモさはここまでにしておくけれど、物語を読み進めていく中で気になったのはあの日友人から言われた“過去は変えられる”というフレーズだった。

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去はそれくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?
(文庫版 p.33 )

物語の中で、蒔野が発したこの言葉は、その後幾度となく回想される。

正直なところ、全てを読み終えてストーリーとこのフレーズがどのように絡んでいるのか。はたまた「過去とは何によって、どう変わっていくのか」を自分の中で言語化するには時間を要する気がする。

今のところ言えるのは、2人が東京で再会を予定していた夜に会えなかったことで別々の道を歩むことになった運命、洋子がイラクでテロに遭い目の前で誰かが死んでいく中で自分は助かったことへの複雑な想い(Survivor's guiltとして紹介されている)、蒔野が1年半ギターから離れたことやその後の仲間の死を通してあの時自分もそれを選んでいたのではないか…という感情など。そういった選んだ世界/選ばなかった世界(事によっては“選ぶ”という言葉が当てはまらないものもあるが)が軸になっている気がする。未来における経験を通して、どちらもの世界をどう捉えていくかということなのかもしれない。これは東日本大震災における事例とも通ずるかもしれないが、洋子のバグダッドからパリへの帰国後に発症したPTSD(Post Traumatic Stress Disorder)自体が一つ物語っている。

今回「マチネの終わりに」を読み、物語を通してこのフレーズが気になったのは僕自身の経験に依るところが大きい。

高校時代に怪我により走れなくなり、途中で陸上競技から離れた僕。ずっと僕の中では“コンプレックス”のようなものがあった。いや、トラウマとでもいうべきか。

自分は競技者として速くなれなかった。3年間やり通すことなく諦めてしまった。良好な人間関係を築けなかった自分はダメなやつだった、などなど当時の負の感情を思い出せばキリがない。

ちょうど2年半前に陸上競技に復帰してからあることに気づいた。

僕が再び走り出した理由は、やはり高校時代の悔しさやコンプレックスだった。高校3年生の地区予選直前で競技から離れた僕。「もう苦しまなくていい、走ることから解放された」と思った。

その後、地域貢献のNPO活動へと足を踏み入れた一方で、4年半の間どこか満たされない思いがあった。それは、やはり頭の片隅に「走ること」への諦められない想いがあったからだと思う。

走ることはもうないだろうと諦めていたが「あの記録会で怪我をしなければ、もうちょっと自分が我慢していれば、先生の顔色を窺わなければ…。」と「たられば」のような感情は心のどこかにあった。

走り出して気づいたことは「未来は変えられる」ということだった。起きてしまった過去は変えられないかもしれないけど、今行動すれば未来はどうにでも変えられる。そのことが、一度は絶望した走ることが希望へと変わった理由だった。

とある友人(前出の友人とは別)から「木幡さんはどうして走ってるんですか?」と聞かれた時にそのことを話すと、意外な答えが返ってきた。

私は未来だけじゃなくて、過去も変えられると思ってます。

その言葉がずっと引っかかっていた。過去は果たして変えられるのだろうか。だからこそ、「マチネの終わりに」を読んでいて、あのフレーズが気になった。

まだ、完全にはこの言葉の真意を捉えられていないが、“過去の捉え方”もしくは“過去の意味するところ”が変わるのだと思っている。

僕自身、100%高校時代の経験が良かったとは思わないが、再び走り出してみてあの頃のコンプレックスを思い出すことが少なくなった。そういえば、高校で陸上部を辞めてから陸上競技に復帰してしばらくするまで「高校時代陸上部に戻って練習を続ける夢」を定期的に見ていた。

いつの頃からか境目は定かでないけど、最近は見なくなった。

また、走っていてあの頃の経験、苦悩があったからこそ、言語化できること、他人への共感するところも増えた。

”過去の意味するところ”では、陸上部時代の経験だけではなく、東日本大震災から自分が経験した日々や大学を卒業せずに人生に迷ったここ2年間などたくさんのことが今になってみると変わった。

もっといえば、東京にいるこの1年間でさえ、この後の人生で“過去”になっていく過程で変化し続けていくのだと思う。

未来は常に過去を変えてるんです。

という蒔野が発した、あの言葉のように。

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木幡真人|masato kohata
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