傷によって人は繋がれるのかもしれない
自分に特筆すべき感性なんてあるのだろうか。
日々の生活や映画、小説を通して、特別な感情や気づきを得られるわけでもなく、誰かが書いた言葉の方が素晴らしいものに見える。自分の感情はなかったもののように後ろに消えていく。
日常会話で「あなたはどう感じたの?」「君はどうしたいの?」と意思を訊かれても、すぐには湧き上がらず後から一人で悶々とすることがしばしばある。何かがあったはずなのに、それは何だったのだろう。ようやく想いを言語化できた頃に、相手はもう目の前からいなくなっている。
少し視点を変えて語ると、対話型AIの登場によって言葉を扱う仕事は減るだろうと予想されている。自分も仕事でChat GPTに記事の構成やテキストを作成を頼んだときに、それなりの速度と精度で返ってきて驚いた。すごいなあと感心する反面、文章を書くことを仕事にしたいと思ってきたことがAIに代替されてしまうのかと思うと虚しい。情報に溢れる社会において、自分が言葉にしなくとも既に他人や機械がはっきりと言葉にしてくれている。
そんなことを書いている今日、「自分の感性などあるのだろうか」という悩みに少しだけ光が見える作品を観た。仙台に帰っていた間に会った友人からお薦めされた、アニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。
戦争の最中、敵を倒す武器として扱われていた元少女兵のヴァイオレット。感情を持たず長らく道具のように生きてきた彼女は戦後、「自動手記人形」と呼ばれる手紙の代筆サービスに出会い、その仕事に就くことを望む。
はじめのうち、命令されないと行動を起こすことができず、代筆する文章も“手紙”というよりも報告書そのもの。繊細な感情を伝える手紙という媒体には異様なほど浮いて見えるセリフであり演出なのである。
原作が刊行されたのは2015年。アニメとして放送されたのも2018年だというが、同僚どうしの会話で自分の感情ではなくデータから回答するシーンや依頼者が「たしかに指定した言葉は手紙に入っているが…」と嘆くシーンを見ていると、まるで2023年に生きる我々がChat GPTとの問答で目にしている光景ではないかと錯覚するほど。
しかし、感情を持たなかった彼女も依頼者たちが心のうちに抱える傷を知っていくうち、過去に経験した大切な人との別れに対する感情を少しずつ発露していく。
彼女が感情を見せるようになる姿を見ていて、AIになくて、人間にあるのは“傷”なのではないかと思った。
AIに感情はないというが、Chat GPTに対して設問とそれに対して受けた感情の項目・評価軸を用意してあげると嬉しい、悲しい、怒っているなどを点数を付けて返答してくれる。自分も以前試したことがあり、それっぽい回答が返ってきた。
もちろんそれは擬似感情で、AI独自に感じているのではなく、学習する中で最も当てはまりそうだと判断して用意したもの。だからこそ、感情を真に人間たらしめているのは生きる中で受ける傷なのではないか。
例えば、梨木香歩さんの小説『裏庭』の中で、主人公が異界で出会う老婆はこんな言葉を発する。
傷は宝。感情を知ろうとするヴァイオレットも依頼者が内に抱えている心の傷を垣間見ることで、自らが抱える傷に触れて、その形を初めて認識しようとする。そしてまた、その傷は誰かを癒す言葉になる。
手紙を送りたい人の話を聞き、要約しつつも単純なレポートではなく、相手へ送り主の感情がより良く伝わるように言葉や構成を練る。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』における「自動手記人形」という職業は、現代における“編集者”なのだと思う。
誰かの想いに寄り添う言葉を紡ぐ。そして、届ける。そうした行為で、単純な選択肢の提示ではなく、真に感情を揺さぶる言葉を当てはめられるのは傷を持つ人間が為せる技ではないだろうか。
傷を知っているからこそ、それに対する悲しさや怒り、嬉しさや面白さのコントラストができていく。
それらしい話は誰にでも、そして機械にも書くことはできるが、人の抱える傷は引用も模倣もできない。そこから発露される感情はまさにオリジナルのものだ。
そういえば、ドラマ『だが、情熱はある』で、売れない若手芸人だった頃のオードリー・若林さんが放送作家・藤井青銅さんから「人がね、本気で悔しかったり惨めだったりする話は面白いんだよ」と言われていたじゃないか。
男らしさを強制されることで生まれる傷。収入によって価値を品定めされているような感覚に陥る傷。同年代が自分の遥か先を走っているように思える惨めさ。繊細ゆえに周りと同じようには振る舞えないことへの後ろめたさ。
この世界で抱える傷や生まれる気持ちをどうか無視しないで生きていきたい。そして、誰かが語った言葉や用意された言葉ではなく、拙くても自分自身の言葉を残し続けたい。
その言葉は、確実に自分の感性なのだから。