ぼくらが見ているのは"片面だけ"なのかもしれない。映画「やがて海へと届く」をみて
映画「やがて海へと届く」を見た。
東日本大震災によって、東北へ一人旅に出ていた親友の失踪を受け入れられずにいる主人公の喪失感と再生を描いたこの映画。とりわけ、東北出身の自分としては感じるものがあった。
中川龍太郎監督の存在を知ったのは2年前。仙台の居酒屋で友人と飲んでいたとき、その友人が被災地を訪れた中川龍太郎監督の案内をしたと話していたことがきっかけだった。実はその直前に偶然、中川監督の作品である「四月の永い夢」「走れ、絶望に追いつかれない速さで」をAmazon Primeで見ていて、友人と呑みながら話すなかであの映画の監督だったのかと気づいた。
それから、この映画の途中には、主人公の真奈(岸井ゆきの)と同僚が東北(岩手県陸前高田市)を訪れて出会う現地の人たちのなかに釜石出身の知り合いが出演している。そんな前情報があって興味が湧き、観に行くことにした。
映画の前半、親友・すみれ(浜辺美波)の失踪に喪失感を抱えている真奈と「死」として受け入れて前へと進もうとするすみれの恋人・遠野と母親が対比的に描かれている。事実、真奈は前へと進もうとする2人にイライラし、他の人と婚約した遠野に驚いている。
そんな真奈が、陸前高田を訪れたときに現地の人たちと出会い、触れ合うなかで再生へと踏み出し、すみれの秘密が明かされていく。
「喪失」と「再生」というテーマは、先ほど挙げた2作品と共通している。しかし、僕にとっては表現がやや難解だったこともあり、東北が舞台の一つになっていること以外にどう感想を持っていいか分からずにいた。
映画を見終わったあと「やがて海へと届く」の感想が書かれたいくつかのnoteを読んで、回想シーンですみれが言う「私たちには、世界の片面しか見えていないと思う」というセリフの重要さに、なるほどと納得した。
映画前半は真奈の視点による回想だが、後半はすみれの視点による回想シーンへと転換し、どうして入学後に真奈とすみれは出会ったのか、大雨の日に急にすみれが真奈の家に泊まりに来た理由、東日本大震災で津波に巻き込まれるまでどうしていたのかが明かされていく。
映画を見終わったあと、いくつかのレビューを流し読みしていて「すみれの秘密が分からなかった」というコメントを散見した。事実、僕も全ての秘密は分からなかった。すみれは真奈のことが恋愛的に好きだったというレビューもあったが、はっきりとは描かれていない。
(やや負け惜しみも含んでいるが)僕は、すみれ自体の秘密が何であったかよりも、親友、母親、恋人という密接な関係を持った人間ですらその人の知らない秘密があったり、同じ事実にも見え方が違う側面があること(=「片面しか見えていない」)がこの物語においては重要なのだと思う。
話題が飛ぶが、今年に入って平野啓一郎さんの『私とは何か――「個人」から「分人」へ』という本を読み、分人主義という概念に触れた。そこでは、喪失についても触れられている。愛する人を失った悲しみは、その人がいなくなるということだけでなく、その人に見せる自分の分人がもう思い出のなかでしか生きられなくなるからだと書いてある。
よく言われる「あの人ならこう言うだろう」という言葉は、その故人が言うかどうかではなく、残された人たちの中にいるその人の分人(「やがて海へと届く」では、片面と表現できる)において出てくるもの。
読み返して知ったのだが、「心理学では、愛する人の死を受け容れるプロセスを『喪の作業』と呼んでいる。」(p.148)らしい。まさに、中川監督の描く作品は「喪の作業」についてだ。
そして、自分なりの解釈ではあるが、陸前高田を訪れる直前、真奈が「親友が帰ってこないんです」と同僚に打ち明けるところから物語が少しずつ前へと進んでいくのは開示・共有していくことによる喪失感をうめるプロセスだったのではないかと思う。
震災後、僕の同年代でも語り部として活動する子が何人かいた。いくつかの研究や報道には、語り部として語り、昇華していくことが喪失感をうめることへつながるという内容もあった。
現地の人たちと出会ったシーンには、震災のことを伝えるドキュメンタリーとしての側面以外に主人公たちにとってどのような意味合いがあるのか気になっていたが、きっと共有することによる"更新"なのだと思う。
はっきりとした結末ではないが、先ほども書いた真奈のなかに生きるすみれの分人が、知らない側面=もう一方の片面を捉えることによって更新していき、再生していく。そうしたプロセスこそストーリーの重要な要素だったのではないだろうか。
東日本大震災から11年。自分自身が周りの人を失ったという経験はなかったが、喪失を受け容れられない真奈と「自分のなかで生かすことは止めようと思う」と言った遠野のように、同じように時間が経っても受け止め方は人によって異なる。それは物語の世界ではなく、グラデーションではあっても現実にあるのだと思う。
東北出身の人、東北で震災復興に関わっていた人に会った日の夜この映画を見ることができてよかった。