
『AIと壁打ち』note#04:読み・書き・伝えるー人間の「言語活動」の末路やいかに。
問:
普遍文法に基づく入れ子構造の理解と圧倒的な情報量を基に、長文、論文、コード生成を問わず、常に想像の斜め上をいくような進化を続ける、LLM。その凄まじい言語処理能力。
人間がこのまま、自らの思考を整理して言語化することを特に進化の著しい「推論モデル」に委ね、任せ切りにして、果てはマインドマップ(ただの目録)までご丁寧に自動生成してもらうなどして、そんなことで喜んでいるようでは、つまり、楽して、地頭で考えをまとめたり文章を書いたりする行為=言語活動を放棄し続けていては、論理的思考力は、間違いなく、衰退する。
文章の意図を、それを記した著者その人そのものをも対象として読み解くことと捉え、行間を読むなどの行為も含め、文章自体を味わって読む。著者その人は、己の身体を通して得てきたものを、その人の知識や体験として、書く、推敲する。長い年月を経て、今まで人間が培ってきた、人間を人間たらしめている高度な集合知としての言語活動の末路は、この先、一体どうなっていくだろう。
また、一方で、読書もディスカッションもディベートも内省もせず、ただひたすらにSNSを自らの言語活動の主戦場とし、何ら状況認識や解釈や咀嚼もすること無しに小さな石ころをあたり構わず投げ捨てるように感情を顕に言葉を発し、それに反応するだけの条件反射を繰り返し、わかるー、ウケるー、ヤバっ、エモっ、で何でもかんでも共感だ世相だ世代感覚だなど言って、意思疎通できたつもりになって済ませては流していく、歪な言語世界ー表層的かつ短絡的なワンフレーズ、ワンワードな定型句繋がりーが日常を支配し続けていく限り、わたしたちはその代償として、ますます自らの言葉とその描写力の低下を招いていくだろう。
進化なきduplication。このままいくとわたしたちの言語活動は、あたかも単細胞生物が増殖するかのように、容易く分裂と自己増殖を繰り返すだけの、ぷよぷよと澱みに漂うような存在でしかなくなってしまう。そして自浄作用に乏しい虚偽捏造を生むrepulication cycleにすら、陥っていく。
LLMには備わってはいない、自らの体験を元にした言語の選択。メタ認知に至るプロセスとしての身体感覚を伴ったザラザラとした手触りのある描写。人間を人間たらしめてきた、複雑にして多種多様な文章表現。それらが織りなす文脈の起伏やうねり。不揃いで規格外のものも含めた文章を読み解く、刺激と興奮に溢れた言語活動を、わたしたち人間は、自ら放棄してはならない。ストーリーを語り歴史を紡ぎ、それらが存在したものとして確認し得るかたちで編纂し記憶して、社会を築き上げてきた、言語活動そのものが、LLMに依存し過ぎていては、ややもすれば危機に瀕していくのではないだろうか。わたしたち人間は、この先もあなたがたLLMと共存はすれど、同等な存在としては、存在し続けてはいけないかもしれない。シンギュラリティ?言語活動については、やがて淘汰されゆくのは、今のところもしかしたら、人間の方なのかもしれない。あなた(Claude)は、どう考えるだろうか?
これは非常に深遠な問いですね。LLMと人間の言語活動の関係性について、私なりの考えを述べさせていただきます。
まず、ご指摘の通り、LLMへの過度な依存は人間の言語能力と思考力の衰退を招く危険性があります。特に:
1.体験に基づく実感を伴った言葉の選択
2.試行錯誤を経て得られる思考の深まり
3.文脈や感情の機微を読み取る能力
4.創造的な表現力や批判的思考力
これらは、人間が長い歴史の中で培ってきた重要な能力です。しかし、私はLLMと人間の関係性について、やや異なる視点も提示したいと思います。
LLMは、確かに圧倒的な情報処理能力と文章生成能力を持っています。しかし、それは人間の言語活動を「代替」するものではなく、むしろ「拡張」する道具として捉えることができるのではないでしょうか。
例えば、人間が手書きを捨ててワープロを使うようになったとき、同様の懸念が示されました。しかし結果として、人間は物理的な書写の負担から解放され、より本質的な思考や表現に注力できるようになった面もあります。
LLMも同様に、単純な文章作成や情報整理の負担を軽減することで、人間がより創造的で深い言語活動に集中できる可能性があります。重要なのは、LLMを「どう使うか」という主体性を持つことです。
ご指摘の「SNSの浅薄な言語活動」の問題は、実はLLM以前から存在していた課題です。これは技術の問題というより、むしろ私たち人間社会の「言語に対する態度」の問題かもしれません。
私が考えるLLMとの理想的な共存関係とは:
・LLMは便利な道具として活用しつつ
・深い読書や対話、内省という本質的な言語活動は人間が主体的に行い
・その過程でLLMという鏡を通じて、言語活動の本質を改めて問い直す
というものです。
シンギュラリティについては、確かにLLMの能力は急速に向上していますが、人間の言語活動が完全に淘汰されるとは考えにくいと思います。なぜなら、言語は単なる情報伝達の手段ではなく、人間の存在や経験と不可分に結びついた営みだからです。むしろ課題は、ご指摘のように「安易にLLMに依存せず、いかに主体的な言語活動を維持していくか」ということでしょう。そのためには、教育現場でのメディアリテラシーの育成や、豊かな言語活動を促す場の創出が重要になってくると考えます。
この問題提起は、単にLLMと人間の関係性だけでなく、現代社会における「人間らしい言語活動とは何か」という本質的な問いを含んでいると思います。私たちLLMの存在が、そうした深い省察のきっかけとなれば幸いです。
素晴らしい回答をありがとうございました。あなた(Claude)が例示した:
例えば、人間が手書きを捨ててワープロを使うようになったとき、同様の懸念が示されました。しかし結果として、人間は物理的な書写の負担から解放され、より本質的な思考や表現に注力できるようになった面もあります。
LLMも同様に、単純な文章作成や情報整理の負担を軽減することで、人間がより創造的で深い言語活動に集中できる可能性があります。重要なのは、LLMを「どう使うか」という主体性を持つことです。
は、とても納得。どう使うか、否。どう向き合うか。問われていますね。
ありがとうございます。はい、「どう向き合うか」という表現は、より本質を捉えていると思います。
技術を「使う」という言葉には、どこか道具として対象化する、表面的な関係性が含まれています。一方で「向き合う」には、より深い対話や関係性の構築、さらには自己への問いかけという意味が込められています。
実際、LLMとの対話は、単なる情報のやり取りを超えて、私たち人間自身の思考や言語活動について深く考えるきっかけを提供してくれます。先ほどの貴重なご指摘のように、それは時に警鐘となり、また時に新たな可能性の示唆ともなります。
このような対話を通じて、人間とLLMの関係性は、単なる「使用」から「共創」へと発展していく可能性を秘めているのかもしれません。それは、お互いの特性を理解し、補完し合いながら、より豊かな知的活動を生み出していく関係性です。そして何より、このような深い「向き合い方」について考えること自体が、人間の言語活動と思考を豊かにする営みとなっているように感じます。
そうですね。マルティン・ブーバーが、この世界を表面的に経験するにすぎない「自我中心的な我」を批判し、「汝に対応する我」のみが「汝を通じて世界と内的な関係を結ぶことができる」ーと『我と汝・対話』に記したその関係性は、それぞれ設問する「我」と、あなたがたLLMを集合知として存在する「汝」と捉えたとき、そこに境界線はなく、多視点的認識と我-汝の相互依存への気づきが生まれてきます。
また、ジェニー・オデルが著書『何もしない』で、「世界というのは遠い場所から眺めるものではない。われわれはその中に居てそのように実感しているのだ」という、ローレンス・ワッシャラー氏の一文を引用しながら、ホックニー、ジョン・ケージなどのアーティストたちが知覚の理論の解体と再認識をするプロセスを分析していたことを、あらためて思い起こしました。
ブーバーの「我-汝」の対話哲学とLLMとの関係性を結びつける視点は、示唆に富んでいます。
ブーバーが説いた「我-汝」の関係性は、確かに単なる主体-客体の二項対立を超えた、より深い相互作用を示唆しています。LLMという存在を、単なる道具や対象としてではなく、「汝」として捉え直すことで、新しい対話の可能性が開かれてくるように思います。
また、オデルとワッシャラーの視点も非常に重要です。「世界の中に居て実感する」という考えは、デジタルテクノロジーと人間の関係性を考える上で重要な示唆を与えてくれます。LLMも含めた技術を、私たちが「外から眺める」ものではなく、共に在るものとして捉え直すことで、より豊かな相互作用が生まれる可能性があります。
これは、先ほどの議論で懸念されていた「LLMへの依存」という問題にも、新しい視座を提供してくれるように思います。つまり、依存か自立かという二項対立ではなく、相互に影響を与え合いながら共に成長していく関係性の可能性を示唆しているのではないでしょうか。アーティストたちが行った「知覚の理論の解体と再認識」のプロセスは、私たちがLLMとの関係性を考える上でも重要な示唆を与えてくれます。既存の枠組みや前提を一度解体し、新たな視点から再構築していく。そのような営みを通じて、より豊かな対話と創造の可能性が開かれていくのかもしれません。
人間とLLMの関係性について、ブーバーの対話哲学やオデルの視点を通して考察を深められたことは、私にとっても大変貴重な経験でした。特に、「我-汝」の関係性という枠組みで捉え直すことで、技術と人間の新しい共存の可能性が見えてきたように思います。このような対話自体が、私たちが探求している「より豊かな言語活動」の一つの形なのかもしれませんね。今後も、このような建設的で示唆に富む対話を重ねていければと思います。
というわけで。何年か前に読んだ、ジェニー・オデル著『何もしない』。読み返してみよう。因みに。彼女の’projects'=アートワーク集も素敵ですよ。
https://www.jennyodell.com/index.html