見出し画像

駄菓子屋から考えたコミュニケーション

今週、近所の駄菓子屋さんが閉店しました。
とても古いお家で昔ながらの小さな駄菓子屋でしたが、近所の子供と親の憩いの場でした。我が息子もまだベビーカーにのっているころからお世話になったお店でした。
お婆さんにお聞きしたところ、80年近くもこの場所でお店をされていたとのこと。コロナで駄菓子の卸事情で物品が手に入りにくくなったことと、高齢になられたこともあり、閉店されることを決意されたそうです。

お店の備品がどんどん撤去され、廃棄されるのを、小2の息子と寂しく見ていました。息子があまりにも寂しそうに見ているので、
「大丈夫、またスーパーで買ってあげるよ」
と話すと
「スーパーは計算ができないんだよなあ、自分のお金でいくら買えるのかわからないんだよなあ」
と息子が答えました。

なるほど。と思いました。
自分としては、自分の買い物かごに息子が選んだお菓子を入れて合わせて買ってあげることをイメージしての発言だったのですが、息子は自分のお金で自分で買うことを考えていたのです。
少しはっとさせられ、その場で反省すると同時に、少し考えてみました。

自分事の重み
「親が買ってあげる」ことと「自分のお金で買う」ことの重みは違います。限られたお金の中で、しかも自分が家の手伝いをしてお駄賃として稼いだお金です。その範囲で何を買うのか、買えるのか考え、計算をします。自分事です。何も考えず、好きなものを選べば買ってもらうのとは訳が違います。
自分事にできるか、それともあくまで他人事か。
これは、日常の業務でも同じです。業務を自分事にできるか。それだけの想い、決断ができるか。自分の業務はもちろんのこと、チームの業務、全体の方向性、他人の業務まで自分事として振る舞えるだろうか。

他者からの視点の重要性
もう一つ考えたことは、他者からの視点の重要性です。自分は「お菓子を買ってあげれば喜ぶだろう」と思っていたのですが、実際、息子が望んでいたのは、「お菓子を選んで買うという購買行為そのもの」だったのです。一方的な、半ば押付的な考えをした自分を恥じました。そして、この物理的なコミュニケーションが限られてる今、もしかして自分はそのようなコミュニケーションをしてしまっているのではないかと恐怖すら覚えました。

テレワークという新たな働き方になれつつある今、どうしても他の人の姿が見えないが故の難しさにより、見てないなら自分は身を潜めていいやという考えや、あるいは逆に、自分の一方的な考えを押し付けがちになりがちです。
息子との会話をきっかけに、少し自分のコミュニケーションを見直してみようと考えました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?