中国人とイスラム教徒という贈り物 V.1.3


第1話 中国人やイスラム教徒とは(悪どころか)善知識

  善知識:〔仏〕仏教に導いてくれるよい友人・指導者。知識。 
     広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店

  彼ら中国人とイスラム教徒の真剣味、これを私たち日本人が真摯に受け止めれば、日本人は再び強くなれる(アメリカ人も韓国・台湾人もそれを望まないので、邪魔するでしょうが。)

① 昔々、人間の皮を被った狼に人のいいおばあさんと優しい赤ずきんちゃんは、食べられてしまいました(賢い木こりに助けられる)。そして、21世紀の日本では、日本人の名前を騙り日本人に似た顔つきの偽日本人が、お年寄りを欺してカネを巻き上げ、優しい日本人を食べてどんどん太って(増えて)います。
  一方、元から日本に住んでいる「人のいい日本人」たちは、子供の時からの毒チン漬けで大人になると病気になり、どんどん数が減っています。

② 日本の政治家といえば、今や金儲けだけの狼政治屋となり、マスコミも狼、警察まで狼の仲間ですから、哀れな在来種純粋日本人を助けてくれる「木こり」はどこにもいません。
  『のさばる悪をなんとする。天の裁きを待ってはおれぬ。この世の正義も当てにはならぬ。闇に裁いて仕置(しおき)する』『南無阿弥陀仏』。
(テレビドラマ「必殺仕置人」山崎努、沖雅也、藤田まこと)

  唯一、日本人に残された任侠ヤクザ(佐賀純一「浅草博徒一代」新潮文庫)だけが、一般大衆の頼みの綱(赤ずきんちゃんにおける木こり)であったのですが、これも警察によってその権限(私法上、ある人が他人のために法令・契約に基づいてなしうる権能の範囲)が奪われてしまいました。
  社会生活で発生するトラブルは、高額な弁護士でなければ助けることができない、という悪法。在日韓国人には、在日韓国人支援組織が無料で助けてくれる、というのに。

③ そんな日本に登場した「善知識」が、中国人とイスラム教徒。
  彼ら中国人やイスラム教徒の、地に足のついた・しっかりとした・真剣味のある生き方・生活態度こそ、今の日本人にとって真に必要とされる師となり、解決策となるのです。
 
  頼りにならない警察だの、政治資金寄生法のような、なんの効果もない法律だの、或いは、戦車やミサイルなんて、実際には日本人を破滅させるだけで全く役に立たない子供のおもちゃでしかない。
  (在来種純粋)日本人一人一人が、自分で自分の意識を変えていく努力をしない限り、「個人で・国家として詐欺被害に遭う」という日本(人)の体質は変わらないのです。

  今こそ、「日本人なんかぶっ○○せ」という位の、中国人の気概・気迫・気魂に学ぶ良いチャンス。
  また、イスラム教徒の「人間本来の属性(本性)に戻る」ための真剣な「祈りの気迫」を学ぶことで、在来種純粋日本人本来の気性・気魂に立ち戻ることができる。
  彼らの真剣に生きる気迫・気魂こそが、今の日本人に必要とされる、真の問題解決の道、なのです。


第2話 中国人に学ぶ「真剣さ」

  反日だとか「日本人なんかぶっ○せ」と、中国人が気勢を上げているといっても、なんのことはない、日中戦争の頃、日本人(の兵隊)は「鬼」と呼ばれ、今とまるっきり逆で、中国人から恐れられ・嫌われていたのです。

日中戦争:1937年・昭和12年7月7日の盧溝橋事件を契機とする、日本の全面的な中国侵略戦争。

  150年前、日本人は裸一貫から西洋の文化・文明を吸収し、明治維新後数十年で世界の一等国になるほどの真剣味があった。
  一方、中国(とその従属国であった南朝鮮)は、「日本人は西洋の真似をして黒い背広を着た烏(カラス)だ」とバカにしていた。言わば、当時のアジアで、日本だけが真剣で、中国をはじめとするアジア諸国に、その真剣味がなかったのです。

  かの戦争中、南京虐殺という民間人に対する虐殺行為があったのかどうかは知りませんが、中国各地の戦線で日本人の兵隊が中国人の戦闘員をバンバン殺していたのは事実でしょう。
  長い異民族支配(清)によって、国家意識の薄れた真剣味のない中国軍は、正面切って日本軍と戦うことができず、便衣隊(日中戦争時、平服を着て敵の占領地に潜入し、後方攪乱をなした中国人ゲリラ。日本の忍者と同じ。)を多用していた。
  そんな平服を着たゲリラに対しては、問答無用(国際法で、スパイは戦争裁判なしに裁くことができる)で処刑していたので、「日本の兵隊は「日本刀で民間人の首を切り落とす」という悪評になったらしい。(フランスのギロチンや日本の首切りとは最も苦痛の少ない処刑の仕方なので、言わば武士の情けであったのですが。)
  正面から真剣に戦おうとしない中国人は、日本人という超真剣な鬼によって、中国大陸奥地にまで追い詰められ、絶滅寸前だった、ということなのです。

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  ところがどっこい、ここ数十年来の中国人は共産党の愛国洗脳政策によって、本来の真剣さが戻った人間が激増したかのようです。
  先頃、お茶目な中国人がこっそり日本へ入り込んで、靖国神社に落書きするなんて、可愛いいたずらまでするくらい「余裕」がでてきたらしい。

  日本の右翼も「オレたちは在日韓国人ではない。本当に日本を愛するが故に、街宣車で『日本人よ目覚めよ』と訴えている」と主張するのであれば、天安門まで行って落書きでもしてきたらどうか。
  まあ、中国の警察は日本の韓国脳警察と違い、気合いが入ってますから「お茶目」では済まないでしょうが。

  日本の警察官も右翼も、生来が平和な日本という国で、女子供やお年寄り・善良なサラリーマンに威張ったところで、何の自慢にもならない。
  防弾チョッキや盗聴カメラ・マイク他、映画のロボコップ並みの重装備をしているくせに、頭の中身は明治時代の「夜行巡査」泉鏡花なみのチンパンジー脳。
  また、パンチパーマかけて戦闘服着て装甲車で町を徘徊するくらい戦争が好きなら、その意気込みを、常時戦闘態勢の中国人に見せつけてもらいたいものです。

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  紀元前11世紀頃、周の建国時、天下に千数百の国があったといわれる中国。
  なんといっても、中国人というのはよく働くので、食い物は美味いし文化・文明も発達している。だから、中国建国後も、モンゴルだの金だの様々な夷狄(異民族)によって、何度も侵略され侵蝕されて(元王朝や清王朝)きた。その結果、国土も人種もグチャグチャになってしまいました。ところがこの3,000年間、一人一人が「中国人」というアイデンティティーをしっかり保持してきているのは驚異です。
  戦争だけではありません。旱魃(かんばつ)やイナゴの大発生といった天候・気候被害で、人口の3~5割が死滅し、自分の子供を食って生き延びた、なんてこともあったくらい、中国の歴史とは「戦争で殺される」「飢えで死ぬ」という、恐怖との戦いでした。

  四季折々の温暖な気候と豊かな自然(野菜・果物・魚)、世界一綺麗な水、そして単一民族ならではの、家族的で平和な暮らしを何万年もやってきた在来種純粋日本人には、想像もつかないほどの苦労があったのです。
  (そのかわり、年中発生する地震と、夏場の台風被害に耐える辛抱強さは日本人ならでは。また、危急存亡の時になると、明治維新と文明開化なんていう大回転を決めることができるのも、これまた日本人の真剣味のなせる技。)
  ですから、中国人には日本人の経験したことのない、3000年にわたる他民族との戦い・飢えとの戦いを通して、真剣勝負の心が鍛えられてきた。真剣勝負の心がなければ生きられないのが中国人だったのです。

  今や佐賀県の人口と同じ80万人にもなるという在日中国人(在日韓国人は100万人)。日本の韓国脳マスコミは、数千人程度の「在日クルド人禍」ばかりを針小棒大にして話題にしますが、禍(わざわい)にするかどうかは日本人次第とはいえ、人口とその経済力から見れば、圧倒的に中国の影響力の方が大きい。
  真剣味のない生き方の韓は日本人の精神的力を削ぐだけですが、中国人に関しては、一緒にいてケンカして口論・議論して学ぶことができるのです。

第3話 イスラム教徒に学ぶ「真剣さ」

  なにも日本人がイスラム教に宗旨替えする必要はないのです。
  彼らの「日に5回の五体投地」という、真剣で熱心な「祈りの精神に学ぼう」というのです。

  イスラム教徒は、
○ 日に5回、決められた時間に五体投地をする。
○ 周りの人間にそれを見せつける(これが大切なこと)。
○ 座禅のように、みんなで揃ってやる必要はない。
  それぞれが自分のペースで祈り、自分の満足するまで祈る(5分から10分間) → これも重要。

  格好をつけるのではない。あくまでも、自分の心の中で神に近づく努力を必死で行うという、その真剣さが大切なのです。

  そして、日本人は日本人らしく、彼らイスラム教徒の真剣味を鏡にすればいいのです。
  家の中、神棚でも部屋の植木でも、ベランダから太陽に向かってでもいいので、パンパンと柏手をついて「自分の中の神」に心を近づけるとか。
  外出時であれば、満員電車の中でも、公園でも図書館の中でも、トイレの中ででも、1分でも5分でも自分の好きなだけ「神を意識する」。これが日本流「神へ心を近づける」道。

  コロコロ変わる人の心を追うよりも、同じく目に見えなくても、確かに存在する(天地を創造した)不変・普遍の神に近づこうと努力する方が、長い目で見れば間違いない。人間の作った自動車や建物は消えていくが、太陽や月は何十億・何兆年(永久に)変わらないのです。
  目先の利益(ものカネ)を求めるなら人間に拘泥していればいい。しかし、その先にある無限や永久という魂のレベル(形而上)経由で現実世界を生きようとするなら「神の生き方・神の存在」に即した、自分なりの生き方・存在の仕方を目指すべきではないでしょうか。

  現実に神を見ることはない。しかし、神を追求する強い心が涵養される、ということが大切なのであり、単一民族で血が濃いわたしたち在来種日本人であれば、それができるのです。

  60年前、銭湯の湯船の中で、富士山の絵を背に「旅往けば~駿河の国の茶の香り~」なんて、頭に手拭いを載せて浪曲を唸っていたおっさんなんて、今にして思えば、まさに「日本的なる神の境地」だったのです。

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【形而上】

①[易経(繫辞上)「形而上なる者は之を道と謂(い)い、形而下なる者は之を器と謂う」]形式を離れたもの。抽象的なもの。無形。
②〔哲〕(the metaphysical)(井上哲次郎の訳語)時間・空間の中に形をもつ感覚的現象ではなく、超経験的で理性的思惟によってのみ認識されるような概念・対象・存在などのあり方。明六雑誌(12号)「西人の説によれば凡そ学問の事たゞ二大分あり…即ち―形而下の二項に過ぎず」⇔形而下。広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店

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  鎌倉辺りの観光寺院で、薄らぼんやりしたクソ坊主と一緒に座禅なんかしたところで、なんの足しにもならないどころか、やればやるほど「心が落ち着いた気になる」だけの精神分裂症になるだけ。禅に限らず仏教には、神という絶対の意識が欠けているから(噓も方便という、いい加減さ。良く言えば融通無碍)。

  太陽(の運行)のように、絶対に変わらない座標軸を標榜しないかぎり、人の心とは座標を特定することはできない。インドのヨガの修行者のように、奥深いジャングルで何十年も大自然と一体化するくらいでなければ「座禅の効果」など生まれない。むしろ、マイナスとなるのです。

続く

2024年10月4日
V.1.1
2024年10月10日
V.1.2
平栗雅人


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