やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 V.3.3


第1話 今までは人の事だと思うたが俺が死ぬとはこりゃたまらん。 (蜀山人)

  しかし、私は20年前「インディアンの言葉」という本を読んで以来、「死ぬ」のではなく「位相が変わる」という考えに興味を持つようになりました。
  そのせいか、還暦を迎えた2017年の欧州旅行、長距離バスの中で知りあったチリ人の女の子(キリスト教徒)から聞いた「reincarnation」という話を、すんなり受け入れてしまいました(彼女が可愛かったからではない)。そして、互いに笑顔で「来世でまた会おう」といってハグ(欧米式の挨拶)して別れたのです。

  2024年の今までは「本当に会えるのかな?」という程度だったのですが、つい最近、イスラム教徒の祈りの精神(五体投地)をこの目で見てからは、「必ず会える」という確信に変わってきました。
  イスラム教徒になったわけではありません。子供の時から大自然の中で育った期間が長く、35~41歳まで6年間だけ「期間限定仏教坊主」をやっただけなので、太陽や月に象徴される神的な世界の方にどうしても惹かれてしまうようです。

第2話 仏教の輪廻転生 VS 神の目線

  仏教でいう輪廻転生とは、生まれ変わるといっても、犬になるか牛になるか蠅になるかわからない、という曖昧性のある再生ですが、アメリカン・インディアン(ネイティブ・アメリカン)やキリスト教徒の場合、神や創造主を崇拝する宗教ですから、もっとずっと焦点が定まった(曖昧性の少ない)生まれ変わりを指向しているようです。

  また、更に絶対的な神・創造主・アラーを見ているイスラム教ともなれば、その信心の強さ(毎日5回の五体投地)故、もっとずっと強固な生まれ変わりへの確信を求めて(今を生きて)いるようです。

第3話 やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 (芭蕉)

  「死後のことなど誰にもわからない」のですから、あくまでも、今まだ生きている間の「思考ゲーム」というか「心の中での楽しみ・遊び」かもしれませんが、こういう思考でこれから残された短い時間を生きていくというのも、また新たなる楽しみとなります。

  会った回数や一緒にいた時間ではなく、その人の持つ存在感というもので自分の人生を思い返してみたり、これから会う人間に関しても、ひとり心中で値踏みしてみたり。
  チリ人の女の子など、車中3時間程度でしたが、また、いまやその顔も忘れてしまいましたが、彼女の存在感とは、10数年連れ添った妻以上かもしれません。なぜなら、妻とは「もう二度と会わない」という(一般的な)離婚であったのに対し、彼女とは来世で必ず会おうと、一瞬のハグとはいえ、互いに固く約束したのですから。

  

心だけの思い出


  あの時、写真なんてものをお互いに撮らなかったのが良かったのかもしれません。
  目に見えるものがあると、どうしても後でそればかり見て、心というか形而上的な存在を見ようとしない。私にとって彼女の思い出とは、その姿形(器)ではなく、彼女の個性・感性・理性といった、目に見えないけれどもハッキリと私の心の中に思い出として残る、強烈な「存在感(道)」なのです。
形而上
①[易経「形而上なる者は之を道と謂い、形而下なる者は之を器と謂う」
  形式を離れたもの。抽象的なもの。無形。
②〔哲〕(the metaphysical)(井上哲次郎の訳語)時間・空間の中に形をもつ感覚的現象ではなく、超経験的で理性的思惟によってのみ認識されるような概念・対象・存在などのあり方。⇔形而下。
  広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店

  開国、維新(1867)によって、多くの外国人が日本へ来るようになると、日本の景色や日本人の文化に強く惹かれ、彼らは日本で写真を撮りまくっていたのですが、多くの日本人が、現像された自分の写真を見て「写真を撮られると魂を盗られる」と嫌がったそうです。

  しかし、この話を笑えるのか。
  おそらく、当時、世界中の「後進国の原住民」でそんなことを言ったのは日本人だけであったでしょう。在来種純粋日本人は、その混じり気の無い、濃い血由来の強い感性によって、「写真というものの危険性」を認識したのです。
  自分以外の人間に自分の感動や思いを伝えるために、写真や動画(そして文章)は必要ですが、自分自身のうちにその景色や思いをしっかりと蓄積(記憶)するには、自分の中で何度も何百回も思い出し、心のアルバム、・心のアーカイブ(保管所)に記録するしかない。写真や動画に頼ると、自分の心の中の記憶が薄れ、写真や動画という外部の記憶媒体に頼るようになる。昔の日本人はそれを危惧したのでしょう。

  アメリカン・インディアンの叙事詩「一万年の旅路」ポーラ・アンダーウッド著は、一万年(以上)昔からの自分たちの歴史を口承で伝えてきた、長い長い心の組紐です。人間の魂で記憶をつなげてきたからこそ、1万年もの間、薄れることなく存在しているのではないか。

叙事詩 :(epic)本来は劇詩・抒情詩と共に、詩の三大部門の一つ。多くは民族その他の社会集団の歴史的事件、特に英雄の事跡を叙述する韻文の作品。

  かのチリ人との(形而上なる)思い出は、7年という時間と、折に触れて何度も(写真や動画でなく)心で思い出すことによって、今やしっかりと私の心に焼き付けられ、確実にあの世へ持っていける思い出の一つになったのではないかと思っています。

  閑話休題。
  つまり、互いのポリシー・信念・境涯(精神的境地)が一致した人間というのは、それほど印象深いということなのです。で、そういう自分の心の中で存在感の強い人の数だけ、それがいわゆる「功徳」となって「次の自分」の存在を保証してくれるような気がするのです。

  まあ、こんな話を20代の私が聞いたなら「ばっかじゃないの」と笑ったでしょう。つまり、こんな話を真面目にする今の私とは、間違いなく幽冥界に近づいている、ということであり、「親分、ヤキが回っちまったんじゃねえんですかい。」なんていう、映画のセリフそのものを、いま体験して(楽しんで)いるということなのです。

  昔読んだ漫画ですが。
  中学生くらいの女の子が、ある日、キャッチボールをしていた人から飛んできたボールが目に当たってしまった。そしてそれ以来、人の頭に灯のついたローソクが見えるようになり、そのローソクの長さでその人の寿命がわかる、という話です。

  人の寿命なんてわかりませんが、存在感の強さを感じることは誰でもできることで、別に特殊な能力ではない。
  たとえば、上野は西洋美術館前の「カレーの市民」というロダン(1840~1917)の彫刻を見れば、そこに表現された「選ばれた市民たちの苦悩」を通し、時空を越えた彼らの存在感を強く実感できるでしょう。

  蝉は、来世も蝉で生まれることに命をかけて一生懸命鳴き続ける。
(やがて死ぬことを知らない蝉ばかりではないだろう)
  私は、来世も人間、どころか「この私」として生まれることを庶幾し、今日もまた(つまらないことですが)一生懸命(本を書いて)鳴き続けている。

  この本を掲載しているNoteという小説投稿サイトによると、この本で64週連続投稿なのだそうです。つまり、1年以上鳴き続けているわけですが、どうなることやら。

2024年10月24日
V.1.1
2024年10月25日
V.2.1
平栗雅人

第4話 「蓮の花」という(人間的な)生き方  

  サラリーマンから禅坊主になり、京都の僧堂で4年間(雲水修行)、鎌倉の禅寺で1年間(葬式坊主)、東京の寺で住職半年、雇われ葬式坊主半年、計6年間禅坊主を体験した私。
 
  坊主を辞めてから、僧堂の老師にご挨拶に伺いました。
  その席で、つい在家気分で「いやー、禅坊主というのは俗っぽい人間ばっかりなんですね。」と口を滑らしたところ、老師に「ばかもん !」と大きな声で怒鳴られました。私は心中「しまった!」と思ったのですが、なんと、次に老師はこんなことを仰ったのです。

  「お前は在家出身じゃから知らんのや。禅宗坊主ほど、ウジウジ・ネチネチした人間はおらんのじゃ。」と。そして、手元の茶碗をゆっくりと手に取り一服されました。
 
  これが「泥の中に咲く蓮の花」というものか、と帰り道、しみじみと思いました。つまり、そんな人間臭い禅坊主(葬式坊主)ばかりの世界で、一人、孤高の純粋性を追求するという、これは一つの生き方なのだな、と。
 
「人と煙草のよしあしは煙となりて後にこそ知れ」
  僧堂の老師(30年前)の真剣味とは、日本全国10数カ所に散在する僧堂の中でも格別であったと思います。私は妙心寺の○○国師750年遠忌という大行事に、日本全国から参集した百数十人の雲水と共に参加し、各地の老師に参禅(禅問答)させて戴きましたが、かの老師ほど気合いの入った老師は見ませんでした。
 人間、真剣味由来の存在感しか、その人間を(神の目線で)測る尺度がないとすれば、大学時代の在日韓国人OBと老師という、超がつくくらい真剣味のある人こそが、近頃出会ったイスラム教徒と同じく「神に近い存在感」であった、といえるでしょう。
  もちろん、朝から晩までとか、年中無休で真剣ということはありえないし、またどんなに真剣な人間として生きた時期があったとしても、人生を精算した時(死んだ時)に、それを知ることになるのでしょうが。
 
   ******************************
 
  ただ、残念なことに、禅宗に限らず仏教諸宗派の教えなるものは、その尊崇する釈迦が人間ですから、すべて人間だけの世界。「蓮の花的」かの老師でさえ、やはり「人間」という枠から出ることはできない(し、それはそれでいいのです)。「西遊記」の孫悟空と同じで、お釈迦様の世界(手のひら)から出ることはないのです。
  つまり、釈迦の手のひらの外には(神の住む?)無限の世界があるにもかかわらず、仏教徒とは釈迦の考え出した世界の中だけで生きてやがて死ぬしかない。「西遊記」のかの章では、それを指摘しているのです。
 
  (私が「西遊記」を、面白おかしい子供の童話や冒険小説でなく、純文学書(哲学書)として読み直すことができたのは、20年前に岩波文庫の「西遊記」小野忍訳1~3巻を読んでからです。小野忍氏は急死されたので3巻まで。しかも、この名翻訳者の版は絶版になっています。)
 
  因みに、芥川龍之介くらいになると、翻訳の質などお構いなしに自分自身の知性で「西遊記」の本質をつかんでしまうらしい。
 

芥川龍之介「愛読書の印象」から抜粋

 
<引用開始>
  「・・・静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになってゐる。
  但、静かなと言ってもたゞ静かだけで、力のないものには余り興味がない。
  スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
  子供の時の愛読書は「西遊記」が第一である。これ等は今日でも僕の愛読書である。比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。名高いバンヤンの「天路歴程」なども到底この「西遊記」の敵ではない。
  それから「水滸伝」も愛読書の一つである。これも今以て愛読してゐる。一時は「水滸伝」の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
<引用終わり>
 
2024年10月26日
V.3.1
2024年10月27日

V.3.2
2024年10月29日

V.3.3
平栗雅人

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