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コロナがもたらした後遺症。正しさの固定は逸脱者とジャッジマンを製造する。

どうも、まさまさです。先日、ぶんじ寮がコロナ寮になっていた時の話を書いた。

コロナ感染症に関わらず、感染症対策でやるべきことは決まっている。手洗いうがい・マスク。コロナ感染症に関しては、三密という言葉もできたね。

医療や介護の領域に話を広げると「標準予防策:スタンダードプリコーション」というものもある。これらに関して、特に疑う人もいないだろう。つまり、感染症対策が必要な場に置いて、それが正しさであり、ルールだ。

正しさが提示されると何が起きたか。

正しさが強調されたこと、ルール・基準が作られたことで、正しい者と正しくない者が生まれた。さらに、正しい者と正しくない者をジャッジする者も生まれた。正しい者の主張は正しい。しかしながら、正しくない者の主張も暮らしという面で捉えようとすれば、一理ある・理解できる主張もある。感染しないために暮らしがあるわけではないからね。ただ、感染することで仕事などの活動に影響が及ぶ人がいるもの事実だ。

正しい者と正しくない者、そしてジャッジする者が生まれ、お互いの眼差しは「監視」となった。僕にとって、監視の眼差しは居心地を悪くするものです(笑)

これまで、ぶんじ寮では「まちの寮とは?」「お金に頼るのを半分にするって?」などと、答えのない問いを共有し、対話を重ね暮らしてきた。ここから生まれたイベントや発見したそれぞれの強みや個性はたくさんある。ぶんじ寮の民たちがもつエネルギーは、個・集団として、外に向かっていたと思う。しかし、今更感はあるが、コロナウイルス感染症とともに、正しい者と正しくない者、ジャッジする者がうまれた今、エネルギーは内向きだと感じる。互いの行動を監視し時にジャッジし批判・否定することになるから、内に向くのも当然だね。

感染症に関して正しい・正しくないだけならまだしも、コロナがもたらした監視の眼差しは暮らしの中にも侵食してきているようだ。生活上での自分の正しさや習慣というものはあるだろう。そこから逸脱した者への行動への批判・否定が多くなっているように感じる。これは、すごく興味深い現象だ。コロナ感染症の新たな後遺症といえる(笑)

さぁ、どうしようか…。

日常、暮らしの中、何に目を向け、何を感じ、何をするか。それは個人の自由ではある。しかし、それらは環境による影響をかなり受けると思う。

「話を聴いてくれる人の隣では、つい話しすぎてしまう。」「失敗が許容されない環境では、チャレンジそのものがなくなっていく。」など、環境によってその人の行動がかわりゆくことはよくあるだろう。

僕にできることは、もう決まっている。 だれかにとって良い環境になれるよう振る舞うだ。話を受けた時、その話のどこに光を当てるのか、眼差しを
むけるのか…ということ。

ゆっくり、いそげという本が好きだ。そこには「受け手は送り手を育てる」という表現があったと記憶している。どういう言葉を相手に送るのか、それは受け手によって変わりゆく可能性がある、ということだとも考えられる。

ダニエル・キムの成功循環モデル、というものがある。ぶんじ寮にとって、暮らしにとって、何が成功かは知らないが、はじめるべきところは関係の質、といわれる。

関係の質を考えた時、向ける眼差しは、監視ではないだろうし、ジャッジでもないだろう。以前、愛とはなにか?という会話で「眼差し」と答えた友がいた。愛に溢れた眼差しは、互いに心地の良い環境を作っていくだろう。 

どんなときも生活はつづく。

ほな!

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