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不安は自由のめまい
「不安は自由のめまいである」
哲学者キルケゴールが残した言葉。
私はこの言葉に「ここは今から倫理です」という漫画がきっかけで出会いました。
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高校時代、大講堂で受ける倫理の授業はなんだか退屈でよくわからなかった。
先生は苦手だったし、難しい言葉の羅列でしかなく、到底自分につながっているような話に思えなかったから。
テストなんて最悪で。当時の私にとっては暗記して書くだけの作業だったし。
そんな私とは違って、祖母は本や倫理が大好きで、高校卒業後は倫理の教科書が欲しいといってくるほど。
ちょっと変わった人だと思うけど、祖母も言葉や倫理に救われてきた人間なんだと思う。
当時18歳だった私はなんの思い入れもない倫理の教科書を祖母にあげてしまったけど、24歳になった今倫理に触れてみたいと思うようになった。
少しだけ生きることにまじめになったのかもしれない。
今まで生きることが。強迫観念じみていて。
「生きなきゃ」「幸せにならなきゃ」と自分を追い込んできたけれど。
今はもう少し生きやすいように自分を認めていける作業ができたらいいなって思ってる。
私は考えることが好きで、自分の気持ちを文字に起こして気持ちに整理をつけるのが習慣。その一環にツイッターがある。
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心の中に存在する部屋がとっ散らかったまま放置されてしまうと、どんどん不安が募ってくるから。
だから一つ一つの気持ちを言葉にして、ラベリングして棚に入れて整理を続けてる。
(話がそれたのでキルケゴールの話に戻ります)
「不安」はどこから来るのだろうか。
キルケゴール曰く不安は独りで自由で生きることに付きまとうものらしい。
逆に言えば何かに縛られて誰かがそばにいれば不安じゃないんだろうか。
私は今まで自由と自立を求めて生きてきた。そこに後悔はないけれど。
それでも、さみしいという事実に変わりはなく。
一人で食べるごはん。
かえったときに冷めきった部屋。
感想を言いあう相手のいない好きな映画。
一緒に行く人のいない水族館。
誰かと見たかったきれいな空。
とか。
そういう日常の中に潜む孤独感に強い不安を抱いてきたと思う。
不自由と孤独はどっちがつらいのだろうか。
今はまだ、自由のめまいを味わおうと思っている。