社会が親ガチャを積極的に解消するべき理由
超相対性理論のこのエピソードを聴いたことが、この記事を書いたきっかけです。
「親ガチャ」という言葉があります。生まれてきた時点でその環境によって将来がある程度決定されてしまうという考えと理解しています。
これに対して環境は個人が変えられるものであって、「親ガチャ」は言い訳だし個人の努力が足りないと考える人も多いですよね。
僕はこれは人間がまだ原人だった頃の考え方に由来していると考えているのでそれを論じてみたい。またどうしたら能力主義がある程度文句なくワークするのかも考えてみたい。僕の考えとしては人間の動物的な時代の思考と現代の環境のミスマッチによって起こっていると考えている。
動物としての人間は能力主義や努力主義を自然と理解しているのではないか
原人時代は生命を脅かす要素はそこらに存在していた。生きるためにそれぞれが全力で行動せねばならなかったはずだ。そのときに能力がなくても認められるべきとか努力がなくても良いとかは考えなかったのではないか。現代のように多岐にわたる能力が必要とされるのではなく、ただ生きる能力が求められていた時代においては生きる能力がなければ著しく生存確率が下がり、生きる能力がある者だけが生き残って種を保存してきた。
そして生き残った種は当然ながら自分の子どもたちを生きながらえさせることも努力したのではないか。自分の子どもたちがまだ生き残る能力がないうちは特に自分が身を挺してでも子どもたちを守ったはずだ。これは現代でも動物に見られる行為でもある。
そして人間が文明を築いたのは人間の歴史から見れば本当に最近の話で、人間の遺伝子としては圧倒的に原人の期間が長い。つまりこの原人の時代から、少なくとも無意識のレベルではさほど人間は変わっていないのと考える。
現代における生きるとは経済力と仮定してみる
現代において必要な経済力を得ることは生きるために必要なことだ。もちろん人によって必要な経済力は異なるし、異なって良い。完全に無一文で生活するというのは絶対に不可能ではないにしても、なかなか難しいことは皆さんも同意されると思う。
生きる能力≒経済力であると仮定してみる。生きる能力がないと生存確率が下がると考えることは当然のことだ。生きる能力≒経済力ならば、経済力がないと生存確率が下がると考えることになる。
「親ガチャ」を主張する人たちはこの経済力が環境によって左右されると考えると想定するし、「親ガチャ」を言い訳と唱える人たちは経済力は個人の努力によってもたらされるものと考える。特に後者のグループの考えは、原人の時代から変わらず、「努力せねば能力が得られず、能力がなければ生存確率が下がる」というロジックで説明できそうだ。では前者のグループはどう説明するか。補足するが、能力も必要ないし努力もしないが経済的豊かさだけ欲しいと考えるグループはこの記事では対象にしない。それはそれで一考の価値はありそうだが。
経済力が豊かな人たちは本当に自分の努力だけでそれを実現しているか
結論から言えば僕の考えとしては経済力が豊かな人たちは、ある程度そもそも恵まれた環境にいた確率が高いと考えている。例えば現代でも多くの子どもを持つ家庭が、特に日本においては、子どもが高い学歴を持てるように仕掛ける。なぜか。その方が社会的に認められる確率が上がり、すなわち経済的に豊かになることができる確率が高くなると考えているからだ。経済的に豊かにならなくても、少なくとも生きることに困ることは少なくなると考えているだろう。本当に経済力と、生きることに困らないことの間に関係がないと考えているなら、学歴なんか全く気にせずに自由奔放に育てるはずだ。が、現実は多くの家庭が受験戦争に子どもを入れるか、少なくともそれが頭にちらついているはずだ。他にも例がある。例えば婚活においてお互いに学歴を見せることがままあることは誰も否定できないはずだ。少なくとも相手の学歴を気にする人が社会に存在することは誰も否定できない。ここで見てきたのは学歴だが、学歴が経済力を豊かにする強力なドライバーになると信じられている。そして学歴を高くするためには概して教育費が高くなる傾向にあり、その教育費を支出できなければやはり難しくなる。
現代ではインターネットとインターネット上のサービスが発達して無料で素晴らしいコンテンツを手に入れられることができるようになってきた。が、それはとても最近の話。これらが、学歴を高くするために経済力が必要であることを否定する確かな論拠になるとはまだ思えない。かつ、そもそも学習しよう、学ぼうと思わせる何かが存在する前提が経済的に豊かであることとも考えられなくもない。
学歴を一つの例として取り上げたが、経済的に豊かになるためにはそもそも経済的に豊かでなければならないというのはある程度合っていそうだ。つまり「親ガチャ」が存在するというのは否定できないだろう。
自分の種だけを経済的に豊かにして本当に安全か
ここまで「生きる能力≒経済力」と仮定して話を進めてきた。ここで、本当にそれが≒なのかを考えてみたい。
少し話は飛んでコテンラジオのこの回を聴いたときに、経済力の格差が拡がるとなにかしら政情が不安定化するのは世の必定なのではないかと考えた。
フランス革命では「パンが無ければお菓子を食べれば良いじゃない」から、フランス二月革命では「不満だったら頑張って働いて金持ちになればいいじゃん」となってやはり暴動が起きた。
話を戻してこの歴史から考えられることは、豊かさを再分配することは重要どころが必要なのではないか。つまり、貧富の差が拡大すると社会は不安定化する。いかに富もうとも、貧富の差が拡がれば暴動によって社会が何かしらの形で転覆されるか、個人ないし集団が何かしらの形で攻撃される確率が高まる。だから貧富の差を拡大させないことは重要ではなく必要なのだと理解した。なぜなら、生きることを脅かされることになるからだ。これは超相対性理論の以下のエピソードでも戸谷さんが触れている「無敵の人」と通じる節がある。つまりさまざまな意味で貧しく、失うものが何もない人が暴挙に出やすくなってしまうということだ。もちろん全ての人が暴挙に出るとは全く思っていない。が、歴史を見るとその確率が上がるのではないかと考える。
生きる能力と経済力の相関を否定するつもりはないし一定程度は相関するが、経済的な豊かさの再分配が確実に行われないと貧富の差が拡大して、生きることが脅かされる社会を到来させてしまう可能性がある。
親ガチャを防ぐためにはどうしたら良いのか
親ガチャの否定はできないのではないか
親ガチャを言い訳として「個人の努力が足りないからだ」と断じてしまうのは自分にとっては疑問が生じる。少なくとも経済的に豊かな人はいかに親ガチャで諦めてしまう人たちを救うかを考えた方が良い。それは翻って自分のためにも自分の子どものためにもなる。なぜなら安心安全な社会を形成することに繋がるからだ。
本当に能力主義・努力主義”だけ”を貫くなら一代まで
どうしても親ガチャという考えに納得できず個人の努力であるという考えがあるなら、その能力と努力の成果を自分だけに留めるようにしてあとは全て社会に還元するという思考実験をしたら良い。例えば相続税を100%にして誰にも相続できないようにすれば良い。そうすれば100%の能力主義と努力主義を実現できる。すなわち、この世の中で生きることは能力と努力が必要であるということを、自分にはもちろん身内にも適用するということである。おそらくそれはしたくないはずだ。なぜなら人間の本来的な動物的な思考として自分の身内を守ることは実装されており、自分の身内を守ることすら能力や努力の対象になっているはずだから。その時点で身内が能力や努力だけで経済的に豊かにする状況ではなくなっている。自分の苦労を身内に味合わせたくないと考える人もいるだろう。つまり、全ては個人の努力であるというのは”多くの人にとっては”詭弁である可能性が高い。
安心安全な社会を実現するために皆が一定程度の富の再分配を考える
経済力に豊かになることは自分の成果であり、それをなぜ社会に還元しなければならないのかと考える人は実はいたのではないか。その証拠に経済的に豊かな人は自分の身内に財産を残す手段を画策することで必死な人もいる。例えば相続税対策のように。もちろん経済的に豊かになることが自分の成果ではないと否定するつもりもない。確かに自分の成果である部分もある。完全に否定するのではない。
自分の成果だけではなくて自分の家族もしくは先祖の努力の結晶である場合もある。元々自分の親や先祖代々が裕福であった例だ。元を考えればその初代から子孫が継続して努力を積み上げてきたから、その努力の蓄積が認められるべきだとの主張もありそうだ。主張はあって良い。ただ全ての経済的に豊かな人がそれを主張した場合に、その先に待っているのは不安定化した世の中である。
結論としては経済的に豊かになることが、その人の成果である”部分も”認めつつ、一定程度以上は富の再分配をする必要がある。なぜならばそれがその人とその人の身内が安心安全に暮らすことのできる社会が実現でき、かつ社会の構成員全員が豊かになることができるチャンスが広がるからだ。