結論が出ても人生は続く

今まで生きてきて、散々悩んでのたうち回り、
結局同じところに戻ってくるのを繰り返している。
その結果に結論が出たとしても、ただただ生きていくしか無いのだと気づく。


僕はずっと、周りの人の世界観を知りたいと思って生きていた。
みんな、何を思ってどういう算段で生きているんだろうと。

高校に馴染めず鬱々としてた時に気づいたが、
自分は当然のように生きてくというのができない。
生きていくのに何かが必要だと思っている。
当たり前で生きるために、何かが足りない。
理由がないと、何もしたく無い。

あまりに鬱々とした日々を過ごしすぎて、
ただ自分の画面というか、感覚を快状態に維持するだけを目指すのが人生なのか?
生きていく中で不快状態を快状態に戻し続けるこの作業を、一体いつまで何のために続けていくのか?と思ってしまっていた。

そして、そもそもそう思ってしまうのは、
友達がいなくて、クラスにも学校にも馴染めず、部活も勉強にも打ち込めず、常に陰鬱とした感情の揺さぶりに耐えるしか無い、
そもそもそれに耐えて頑張る必要があるのかもよく分からない、
つまり何のために生きてるのか分からない、という状態だったからだ。


でも、自分はそんなもんだと諦めて閉じていく虚無の人生だったとしたら、
この先も生きていくには長いなと思った。


どうせ虚無なら試してから閉じようと思い、
浪人してバイトして、大学ではサークルに入ってミーハーを受け入れ、色んなことを試した。

そうすると、頑なに自分の世界を守るよりも、
ノリ、つまり何となく周りに合わせる、
人に合わせて巻き込まれる、世間に合わせて行動する、
そういう思考と行動は、案外楽で楽しいと気づいた。
人生は自分の考えだけで生きるには虚無すぎる、限界があるのだと知った。


だから、自分が最初から無理だと諦めるのでは無く、どうせ社会性が無いから無理だと思っていた正社員にもなってみた。


ただ、正社員として働いた結果、

より経済的に成功し、
より周囲の信頼を得て仕事をやりやすくし、
家庭と仕事を両立し、
自分の行動範囲とできること、裁量権と給料を増やし、
より強固で安定した関係を周囲と築いていき、
より誰からも馬鹿にされない、そういう立場を固めていく、
経済的な余裕を得てさらに自分の興味を広げて深めていく、

そういった、世間一般で認められている価値観のようなものに全面的には共感できずに、
結局自分探しのように自分の行動と感情をモニタリングして試してみる、ということをやって、
辞めてしまった。

そして結局自分の世界だけで生きることもできず、
社会の端っこにしがみついて何とか生きながらえることにした。
極端に生きられず、妥協もしつつ、
生きていくために、何かを受け入れ諦めながら、でも何かを得て生きるために生きている。


結局働いたとしても自分の価値観は全部変わるわけはなく、
擬態がうまくなるだけで、
メリットデメリット両方抱えて、幸せとストレスを両方抱えて生きていくだけなんだろう。

何者かになりたいという気持ちはずっとある。
世間や社会に対して自分がこんなに凄いんだということを認めてほしい。
自分が当然のごとく存在して良いと安心したい。
そしてもう、ざらつくような自尊心の削れや不快感、不安感、浮遊感から解放されて、
まるで平日休みの午前中のような気楽さのままで生きたい。
そういう極端な考えのまま、現実と日常のあれこれから逃れたい解放されたいと思ってしまう。


だけど、
認めたく無いし、認めたら何かを失うようで怖くてしょうがないし、
こんなことで怖がってる自分も悲しいけど、
自分は、特別じゃないのかもしれない。

何者かになれるのでは、と思ってる自己愛と自己評価の高さに比べて、
現実の自分はそこまでではない。

そのバランスの悪さが身を蝕んでいたと思うと、今までのイライラも腑に落ちる。

何者かになりたいと思っていればいるほど、
実際の生活はうまくいってないのだろう。
うまくいっている人ほど、何者かになる必要はなく、今の自分を大切に頑張って生きられる。
つまり自己肯定感は低いのに、自己愛は強い。だから辛い。

僕は何者にもなれない。
自分は自分でしかない。
何者という表現のような、いつか自分を認めてくれるような世界が開いて、そこで自分はたっぷり呼吸して安心して生きていけるというのは、妄想であり現実にはならない。

でもこれを受け入れてしまえば、
自分は若さを喪ってしまう気がする。
幻想に塗れて、口だけは達者で何もできない人間じゃなく、
諦めて、諦めたことで余裕が生まれ、淡々とした日々に集中して生きられるようになることが、
結果的に周りからは成長や成熟だと見られるのかもしれない。

分かっているけど、
でも自分はどうしても、このままで終わりたく無いと思ってしまっている。

何か自分が表現できるはずのエネルギーがあるのに、それを表現する器がないまま、
そのエネルギーがいつのまにか尽きてしまって死んでいくような、
そういう恐怖がある。

試してみた結果うまくいかなかったから転職をして、何かもう諦めてしまったような雰囲気が自分にある。
でも、前よりは苦しくないし幸せだとも思う。
高校の頃のように一人で部屋に引きこもるのも飽きたから、どうせ終わるなら何か起こるかもしれないとやってみる、そして考える、決断する、飽きて次に行く。
退廃的かもしれないが、それも悪くもないと思う。
悩みながら生きればいいんだろう。

結局のところ、社会での生存戦略というのは、
自分を客観的に見た時に尖っているパラメーターを、社会のニーズにうまく当て嵌めるということだけなんだろうと思う。

その感覚がないと、本当にうまくいかないのが社会だし、
それを少しやるだけで所属させてくれるのも社会で、シンプルな話なんだろうと思う。

そうすれば、どういう人格の人だろうと社会に所属できる。
そう思うと、社会と仕事に救われる気持ちもある。
自分が悪いとか良いとかっていう次元じゃなく、合うか合わないか、合わせるか合わせないかのレベルの話だから。

だからこそ、苦しみを減らして喜びを増やすには、社会と自分を知ることが必要、
というシンプルな結論に落ち着く。

何者かになりたいとか社会に認められたいとか思ってもどうなるわけでもなく、
本人の努力とかそういうことの範疇にないことで決まるような確信がある。

そこに向かって頑張ることで手に入るものではないというか、
むしろそういうものを目指してないからこそそうなっていくような逆説的で残酷なものを感じる。

うまくやって馴染もうとか、頑張って認められようとか、そういうことじゃないんだろうなと思う。
そもそもそう考えてる時点で遠ざかってるんだろうなと。

必死に周りに馴染もうと頑張っている人は、
その頑張っている時点でもう馴染めないのだろうなと思う。

何かが点数化されていて、それをできるだけ高得点で維持することで正解に辿り着けると勘違いしている時点で不正解なんだろう。
そうしてしまった時点でその人の魅力も何も無いんだろう。

今まで生きてきて、考える視点がそもそも違うんだろうなというのはずっと思ってきた。
うまくいったこと、うまくいかなかったことを振り返ってみると明らかにそう思う。

認められたいのに認められないという徒労感と、見えない何かに心を預けないといけない心許なさは、自尊心を削る。

それが分かっていても、それをせざるを得なかった新卒入社のブラック企業。
全部分かっていたけど我慢と健気と若さのカードを全部注ぎ込んで一年半耐え抜いた。それで何が残ったのだろう。

何も残らないと分かっていても、
完全に社会を無視できるほど自分は強くないし、信じられる何かがない。
結局、自分の判断に自信がないから、
周りに頷いて空気を乱さないように生きるほかない。

でも失敗したとしても、きっと次はもう少し
呼吸をうまくできるようになっているし、
やりすぎない擬態もできるようになっていくし、
本音を捨て去らずに温めておくことの大事さもわかっているつもりだ。


ただ、こうやってもう既に結論は出ているのに、
いまだに迷ったり悩んだり焦ったりしてのたうち回っている。
一体何度繰り返すんだろうと思うが、そういうものなんだろう。

自分は自分でしか無く、何者かを目指すものでもない。
でも諦めるわけでもなくただひたすらに自分のやりたいことに向き合っていくことが結果的にここではないどこかへ繋がる唯一の方法なのだとわかっている。
分かっているのに揺らぐ。

結論が出たとしても揺り戻しは続く。
それでもワープ機能の無いただの日常を、
グルグル迷って結局戻ってしまうこの螺旋階段を、
粛々とただ登り続けるしかないのだと腹に決めて生きるしか無い。

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