言葉でできること、できないこと。 #編集後記
ありがたいことに最近、「これは読みたい…!」と思える本や雑誌、マンガに出会う機会がめちゃくちゃ増えている。
だいたいは仕事に関係しているか、仲間が紹介してくれたか、SNSで流れてきたもの。夏に下の子が保育園に行き始めて、関わる仕事にも変化が生まれたタイミングで購入のハードルを(ほんの心もち)下げてみたら、引っ越し以来きれいだった机の左右に、数ヶ月で30冊+αが積み上がってしまった。
(せっかく買ったのに悔しいけれど、正直ぜんぜん読めていない。幼児4人との生活の限界は、やはりなかなか先が長い……)
それでもコツコツ大事に読みきったいくつかの本を振り返ったとき、今の時点で2021年の一番を挙げるならどれだろうと考えてみる。今の自分の関心を反映して、福祉とかデザインに関わるものも多いのだけど、あえて一つ挙げるなら、やっぱり荒井裕樹さんの『まとまらない言葉を生きる』になるかもしれない。
研究者として、障害のある方々の表現に向き合ってきた荒井さん。まえがきの〈「言葉の壊れ」をこわがる〉にはじまり、18の話のすべてで、過去出会ってきた「言葉」に今の時代を重ねるメッセージが込められている。まだの方は、ぜひ読んでみてほしい1冊。
言葉には「降り積もる」という性質がある。放たれた言葉は、個人の中にも、社会の中にも降り積もる。そうした言葉の蓄積が、ぼくたちの価値観の基を作っていく。
「言葉」は便利で、誰でも扱えて、でも扱いが難しいすごく不確実なコミュニケーションツール。自分自身がそこに関わる仕事をしているから……というのもあるけれど、子どもに話をしたり、人にメッセージを送ったりするなかで、「ああ言えば(書けば)よかったな」は毎日生まれている。でも時々、「このメッセージがうれしかった」と言ってもらえることもある。
振り返れば、この春〜夏に自分が関わった記事でも、そんな「言葉」のあり方そのものを扱うことが何度かあった。だいぶ時間が経っているけれど、年が変わらないうちに3つほど、編集後記的に書き残しておきたいと思う。
「言葉の外」の可能性を考える
まず、4月に〈こここ〉で出した和田夏実さんの記事。手話表現を中心に、インタープリター(解釈者)として研究プロジェクトやメディアアート作品を多く手掛ける。
この記事は「言葉」をテーマにした内容ではなく、むしろ「言葉の外」に目を向けるインタビュー。さまざまな身体性を持つ方と、人同士の新しい「感覚の共有」を模索するなかで気づいたことや意識していることを伺った。
私が言葉に対して持つイメージは「からっぽの箱」なんです。たとえば、“切ない”という言葉の箱があったとして、そのなかに実際入っている感情のかけらは人それぞれ違うと思うんですね。
言葉だけで会話をすると、互いのその箱をただ渡し合うだけになってしまう気がしていて。そうではなく、どの箱に入れるものかはよくわからないけれど、その断片をお互いに触り合いながら、「これは確かかも」と思える場所を見つけられるといいなと思っているんです。
『LINKAGE』など、コミュニケーションのためのゲームも多く開発している和田さん。「言葉の外」にある感覚が、固定化されがちな人と人との関係性を楽しく“ズラす”と考えて、身体を使った遊びを大切にしている。
もちろん、短歌や詩など余白がある言葉もたくさんあります。ただ、世界にはまだまだ私たちが知らない感覚が眠っている。
それぞれの身体が持つ感覚をヒントにすれば、一人ひとりが大事にしているものを「大事にしたまま」つながれる、新しいコミュニケーションができるかもしれません。そんな誰も見たことのない景色に、私は出会いたいと思っています。
日々パソコンに向かい、ただ「言葉」だけを扱う作業をしていると、和田さんの言う「余白」がどんどん減っていくのがわかる。ペラペラの、とまでは言わないけれど、どこかで見聞きした表現をさして深く考えることなく並べていたりして、あとからギョッとすることもある。
コロナ禍で対面取材も減るなか、自分の感性をひらく手助けをしてくれているのは、僕にとっては間違いなく子どもなのだろう。
息子や娘と一緒に散歩したり、抱っこしてその体温を直接感じたり、発見した何かを目線やしぐさで語ってもらったり。ちょっとした手の力とか体重の預け方で、気持ちを何となくでも伝えてもらうこともあれば、自分とは使い方の違う「言葉」で、見えている世界を教えてもらうこともある。
子どもたちが大きくなって語彙を増やしていくと、つい「言葉」だけの世界を急ぎたくなるけど、その危うさとか、手前の豊かさみたいなものを覚えておこうと思ったし、そこに立ち戻る手段は、実はさまざまにあることを和田さんには教えていただいたと感じている。
「言葉」という表現の可能性を考える
保育にかかわる方々の記事でも、そうした「言葉の手前」について扱わせてもらう機会が多かった。いくつかあるなかでも、特に印象深かった2つの記事を挙げてみる。
佐伯胖先生、井桁容子先生の対談は、『保育アカデミー』ですでに4回行われている(この記事が1回目)。毎回90分の対話で、テーマが深く、振り返りながら記事を構成するのがとても難しい。もちろんその大変さの分だけ、学びもたくさんある。
この回は、「なぜ大人は子どもに、“型通り”を教えてしまうのか?」という井桁先生の投げかけからスタート。「言葉」がメインテーマではないけれど、大人が陥ってしまうさまざまな姿勢を2人が問い直していく過程で、こんな話が飛び出す。
保育の中でも、子どもたちが全身で感じたり、その感情を蓄えたりする時間を奪ってきてはいないかなと。大人が「言語」にまみれた社会で生きているので、早く言葉にできればできるほど成長したように考えてしまいますが、本当はその手前にいろんなことを感じ、溜め込む体験が必要だと思うんです。
同様の視点を、「表現」をテーマにした回で汐見稔幸先生が指摘。こちらはがっつりと「言葉」の限界/可能性に目を向ける内容で展開されていて、構成しながら終始唸りっぱなしだったのを覚えている。
自分の持つ情報を相手にわかりやすく伝えるメディア(媒体)の一つとして言葉は位置付けられています。人間としての基本的な命の営みを「他者と共有する」、いちツールなんですね。
実際には、心で感じたものは表情や身振り、手振りなどで先に表現されています。それでも足りないから、私たちは言葉を使う。
言葉は便利ですが、知ったことで「わかったつもりになってしまう」ツールでもあります。現実の世界には、言葉にならない豊かな世界がたくさんあるんです。
一方で、「じゃあ言葉がなくてもいいのか?」となると、それも違う。大切なのは、言葉で育めるものと育めないものがあることを、まず理解すること。(これはそのまま僕たち大人が「言葉でできることと、できないことがある」という認識を持つことでもあるはず)
書きすぎるとどんどんこの記事が長くなるので、汐見先生の言葉から2箇所だけ引用する。
言葉というものは、適切な論理体系で身につけていくことで、人が思考を深める大切なツールになっていきます。
感情の世界は揺れ動いて形がない。どれだけ言葉で固定しようとしても、人の気持ちを正確に表すことは絶対にできません。
それでも、私たちは言葉を使って多くのことを他者に伝えています。実はここで私たちが頼っているのが“比喩”です。
つまり、言葉の世界を豊かにしていくには「これって◯◯みたいだね」という表現を使っていくしか、もう方法がないんですよ。
僕は以前、「言葉」について吉本隆明さんの「指示表出」(客観的機能を説明する言葉)/「自己表出」(主体的な表現としての言葉)という括りにであったときに、なるほどなぁと思ったことがある。
前者の客観的な言葉には、ある程度わかりやすい統一解のようなものがある。社会的に合意を得た、ある意味で「大人の言葉」だ。でも、まだ語彙の少ない「子どもの言葉」にはそういった正解がなくて、その場の文脈に合わせた言葉を自在につなぎ合わせながら、伝えたいことを表現している。
それを僕たちは「幼い」などと思ってしまいがちだけど、本当にそうなのか。そもそも僕たちは自分の感じたことを言葉で表現するときに、どのくらい正確に表せているのか。表せないものを正確に再現しようとすることが、本当に「伝える」ことになるのか。
ここで紹介した3人の方は、いつも「大人が子どもから学ぶことがたくさんある」と口にする。「言葉」をお題に、その意味を改めて考える機会をいただいたなと思っている。
『言葉だから』できることは何?
「ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指さすのが、ことばだ。」
これはインタビューではないけど、昨年末に出会った、長田弘さんの『詩ふたつ』(クレヨンハウス刊)に収められた言葉。いち編集者として日々たくさんの原稿に向き合ったり、自分も記事を書いたりしているなかで、最近このフレーズがよく頭に出てくる。
自分にない感覚を持つ人から、学ぼうとすること。
そこで「言葉」の限界を知ること。
それでも「『言葉だから』できることもある」と思って、向き合い続けること。
これは2021年、自分にとって一番大きなテーマだったのだなぁと思う。というか、この先もたぶんここから逃れることはできない。だからこそ、いろんな人にこの視点の話を聞いてみたい。
このnote、実はもう2カ月ぐらい書こうと思ってかけていなかったのだけど(「編集後記やります!」と書いた前回のnoteが7月……)、実はまさにこれを投稿する今日、「言葉」をめぐる大切な対談が予定されていて、慌ててこれを仕上げている。
熱を込めた大事な企画。どんな話が聞けるか、とても楽しみ。