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小島烏水『相模野(抄)』
小島烏水『相模野(抄)』を読んだ。
(寺田和雄編『ふるさと町田文学散歩 ー鶴見川・境川源流紀行-』2014 茗溪社 P.162-183/初出1907年)
今読むと当然のものである書き手の感性を通過させた文体の、1906(明治39)年に行われた踏査の紀行文。
登山家らしい地理に関する経験と知識にもとづいた垂直の俯瞰的視座を持ち、
相模野を武蔵野と、さらには富士裾野や那須野(栃木県北部)と比較する。
というより相模野は地理上で武蔵野とかなり重なるとすら指摘している。
また踏査行程における土地の歴史を掘り下げており、その土地土地から出て来た僧や武人への言及(淵野辺伊賀守義博、一遍上人、高座郡の坂東武者など)もある。
一方で行程の植生の描写も行う。やはり近代日本を支えた養蚕農家による桑畑が頻出する。
そして国木田独歩『武蔵野』(初出1898年)でも描写されていた、明治時代の知識階級であった著者と地元農民たちとの微妙な話の噛み合わなさや意識のズレが『相模野』でもあぶり出されていた(いくらか農民への侮蔑的とも取れる表現もあった)。
彼らの間には近代的自我という溝が走っていることが透けて見えてくる。
なにより記憶に残ったのは時折現れる文学的表現だった。
たとえば境川を「子供がいたずらに白墨(チョーク)で引いたような、ひょろひょろ線」と描写する。
また淵野辺から当麻の無量光寺へと至る「何でもいいから動くものに遇いたい」と言うほどの「茫々とした原」を、「北海道辺の殖民地」と喩える。
短い文章だが、現在の相模野との大きな違いと少し残っている共通点が見えてきて興味深い。
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