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能登豪雨被害で感じた「どうしようもない」という強さ

能登豪雨 115集落孤立 6人死亡 行方不明2名
(2024年9月23日 東京新聞朝刊)

TVには川の氾濫に沈む集落が映し出されている。
孫を必死に探す男性の映像が何度も流れる。
画面が切り替わるとドロドロの仮設住宅。
「やっと仮設住宅に転居できたのに.......必死に高いところに布団をあげたんだけど間に合わなくてびしょびしょです」
と落胆する高齢の女性。
悲惨な状況なのだが、以前に比べて感情が揺るがない。

古くは阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震、そうそう今年正月は同じ能登でも地震があった。私が住んでいる世田谷でも何年か前に多摩川が氾濫した。

正直言って、よくも悪くも災害に慣れつつある。
というか災害の報道に慣れつつあるというのが正確なところか。

災害といえば、私の勤めている会社もランサムウウェアに感染して、えらいことになっている(らしい)
らしい、というのは情報が来ないのが一番大きい。
一応明日夕方あたりからPCが使えるかも、というメールが役員からきた。
この役員、私の後輩だが、この3連休休むことなく働いたんだろう。
本当にお疲れ様である。

ここまで書いて気づいたのだが、人間、自分でなんとかできることは怒ったり、悲しんだり、不安になったりするが、自分じゃどうしようもないことは、怒りも悲しみも出てこないもの。
そう言えば、2、3日前、抗がん剤で髪が抜け始めた妻も同じことを言っていた。
「(髪が抜けるのは)しようがないじゃない、自分じゃどうしようもないんだしさ」
と。

現在アラカンの私だが、歳をとるとどうしようもないことが増えてくる。
どんなに努力しても身体能力も言語能力も記憶力も若い人には敵わない。
どうしようもないことが自然と増えてくる。
そんな状態になると、もうジタバタせずに流れに身を任せよう、と思うのだ。

これは果たして良いことなのか? 悪いことなのか?

ただ言えるのは、生きるのが少々楽になってきたということ。

もし生きるのが辛い人が今私の目の前にいれば、
「歳とれば自然に楽になるよ」
と言ってあげたい。

当然私や私の妻のようなアラカンばかりではないのだろうけれど。

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