<下流老人 Life Wreck> 八月六日(日)の過ごし方
朝六時に目が覚める。あまりにも普通の目覚めだ。このところ夜になるとエアコンを入れる。それで調子が良いのだろう。エアコンなしだと夜中に何度も目が覚め、結局気づくと八時だったりして慌てるのだ。設定温度は二十八度から二十九度。もうずっと夏場は布団を使わない。カーペットの上に直に寝ている。
風呂場でシャワーを浴び、下着を着替える。これはごく最近の習慣。寝ている間に汗をかくからだ。
台所と洗面所のタオル、枕カバーを外して洗濯機に放り込む。今はだいたい三日に一度洗濯をするが、今日がその三日目だ。
洗濯機を回しながら、昨晩台所に置きっ放しにしていた食器を洗い、仏壇に塩むすびと納豆とコーヒー牛乳と日本酒を供える。これは両親の朝食だ。自分は前の日の仏壇下がりのおむすびをレンジで温め、納豆と食べる。粉末緑茶をお湯で溶き、今日はインスタント味噌汁も。
テレビを付ける。ニュースをやっているところを探す。
朝は少し曇っていたのだけれど日射しが出てきた。南側の窓とベランダに日よけを掛ける。これをしないとベランダは床も手すりも火傷するくらい熱くなってしまうのだ。
時間は八時になっている。チャンネルをNHKへ。そう今日は広島原爆忌だ。パソコンでメールチェックしたりしていると八時十五分の黙祷。一応立ち上がって、広島の方向では無いがテレビに向かって頭を垂れる。
政治家達の、子供達の発する言葉をただ聞く。誰がどのくらい本心を述べているのか知らない。だがこの場はともかく静かに聞くしか無いだろう。首相挨拶の後ろから遠くシュプレヒコールが聞こえる。それもまた当然。
洗濯機の脱水が終わっているのに気づく。日よけをかき分けながら洗濯物を干していく。化繊はもうほとんど乾いているくらいだ。タオルが多い。バスタオルを含めれば洗濯物の半分以上がタオルかもしれない。
十時近くになった。シャツを着てジーパンをはき、買い物袋と自転車ヘルメットと投票所入場券を持って部屋を出る。今日は選挙の投票日でもある。
まず歩いて投票所へ。徒歩一分のところにあるのはラッキーだ。母も最期まで投票することが出来た。今日は人が少ない。並ぶこともあるのだが、今日はほとんど人がいない。おそらく歴史的な低投票率になるだろう。そのくらい今回の選挙は無風である。
首長選挙ということもあると思う。現職にほぼ全政治勢力が相乗りした。ただ一党だけ、あえて若い新人を立候補させたので、なんとか形になったという感じだ。結果は専門家ならずとも皆最初からわかっている。
自転車に乗り換えて今度はスーパーに。このところずっと歩いてすぐ行けるドラッグストアばかり使っていて、ちゃんとしたスーパーへ行くのは久し振りだ。野菜を買いたかったのだ。
日曜だからか比較的人出が多い。目立つのはぼくくらいの中高年男性。昔はオジサンがネギのはみ出した買い物袋を積んで自転車で走っているとけっこう目立ったものだが、この十年くらいは昼間にオジサンや爺さんがスーパー通いするのは普通の光景になった。
思いのほか野菜は安い。ニュースでは各地で干ばつ被害や洪水被害が報じられているのでどうかと思ったが、地場ものはそんなに影響が無いのかもしれない。育ちすぎギリギリのキュウリが最安値か。
帰ってきて洗濯物を取り込み、昼は昨日と同じそうめん。そうめんつゆのボトルを開けたので、これを使いきりたいのだ。ひとりだとなかなか減らない。それとスーパーで買った唐揚げと千切りキャベツ。ちょっとした贅沢。もっとも明日は亡父の誕生日なので、たぶん供物用に鰻でも買うと思う。大贅沢。
しばらくのんびりしていたら、外からなにやら音が聞こえる。えっと思ったが、突然の豪雨だ。空は晴れてるのに。慌てて日よけを引き込む。やられた。よしずが大分水を吸ってしまった。
夕方からは横浜・阪神戦の中継がある。残った唐揚げとキャベツはその時の晩酌のつまみにしよう。首位阪神と1・5ゲーム差の広島は、広島球場で巨人と原爆忌記念ナイターだそうだ。
今日は日本中で核廃絶という言葉が使われる。多くの人は本気でそれを願っている。もちろんこれに冷ややかな声もある。冷ややかと言うより冷笑さえある。
確かにあまりにも難しい問題だ。腹立たしいが冷笑にも根拠はある。核兵器を手にしたものはそれを手放さない。手放したらむしろ核の脅威が増すという理屈もある。核抑止論だ。今日のスピーチで広島市長はすでに核抑止は破綻していると言った。実際にロシアも北朝鮮も公然と核使用を口にしている。本当に時間の問題かもしれない。
核廃絶の議論を空しくしている理由のひとつは、核廃絶を実現する論理、リアルな地点での論理が存在していないことだろう。いわゆるリベラルは核兵器は絶対悪であり持ってはいけないと言う。しかし核兵器を持つものは核兵器は核戦争を防止する善であると主張する。
これは核兵器だけに限った議論では無い。あらゆる政治的議論の中でこれはフラクタルな構造としてあまねく存在する。
たとえば民主主義と暴力の問題。リベラルの論理では、民主主義は善、暴力=直接的な力による現状変革は悪と規定する。しかし現実は、歴史的事実は反対のことを示している。すなわち民主主義は暴力から生まれ、専制独裁や強権政治が民主主義から生まれてくるのだ。この事実と、少なくとも日本のリベラリストは真正面から対峙してこなかった。民主主義は善、暴力は悪という単純化は近代主義のひとつの限界でもある。
もちろん、これにも理由はある。近代主義が闘わねばならなかった最大の敵は復古主義、時代を後ろに引き戻そうとする勢力だったのであり、その論理は、力こそ善、民主主義は秩序の崩壊と堕落と弱体化を引き起こす悪という価値観であった。リベラルはこれと闘うためのカウンターとして、それをひっくり返した論理を掲げる必要があったろう。
しかし、それでは結局、近代という時代の壁を打ち破ることは出来ない。しょせんは勝つか負けるかでしかない。人類史は野球の試合では無い。勝つか負けるかでは無く、いかに新しい価値観で人々を統合することができるかである。誰が勝とうが負けようが、いや勝ち負けなどは無くて良い。勝者は全人類であるべきで、それが人類の進歩と言うことだ。近代を乗り越えて新しい時代を開くためには、復古主義の論理に飲み込まれず、かつ近代リベラルの論理の中に閉じこもるのでもない、全人類が勝者となり得るような新たな視点、新たな論理が必要なのだ。つまりこの議論を止揚することが全ての鍵となる。だがそれは並大抵のことでは無い。正直、不可能と言っても良いような難題だ。
政治暴力を肯定し、かつ民主主義を目指すマルクス主義者も、現実にはそれを全く止揚することが出来なかった。それがスターリン主義を生み、結果として復古主義的専制独裁に堕してしまった。北朝鮮などはその戯画的象徴だ。蛇足ながら、日本共産党の脆弱さと不気味さは、まさにこの価値観の混乱をそのまま体現しているところにあるのだと思う。
それでは、このいわば無理ゲーをあきらめ、「リアリズム」という名の現状肯定、現実拝跪が正答なのか。絶対に勝つことが出来ない選挙なら、立候補もせず、投票しなくても同じことだと、放棄するのが正しいのか。近代を超えることなど出来ないのだから、この社会のあり方の中で自分の最大幸福を追求していくのが最善なのか。正邪など気にせず上手くやっていくのが一番なのか。
はるか昔、イカロスの時代から人類は空を飛びたいと願ってきた。多くの人が挑戦し、失敗し、命を落とし、さらに多く人が笑いものになってきた。人が空を飛ぶことなんか出来ない、それが常識だった。しかし、やがて人類は気球を、飛行機を、飛行船を発明した。空を飛び、そして宇宙にまで飛んで行くことが可能となった。
無理なことは無理。それはそうだ。物理学的に言ってヒトが自力で自分の体を浮遊させることは不可能だ。しかしその論理を機械や工学的補助によって補うという、もうひとつ別の論理をもって止揚することで、人類は飛行能力を手に入れることが出来た。自分の腕に翼をくくりつけていくら羽ばたいても飛ぶことは出来ないが、飛行機という別の発想と技術をもってすれば、誰でも空を飛ぶことが出来るようになったのである。
核廃絶を訴えること、勝てない選挙でも放棄しないこと、それは無駄なことでは無い。いま実現しないからと言って放棄したら、永遠に人は新しい空に進出することは出来ない。
新しい世界に進出するまでは、多くの人が命をかけ、笑われなくてはならない。その役目をあえて引き受ける人こそ、名も無き英雄と呼ばれるにふさわしい、人類史最大の貢献者なのだと、ぼくは信じる。
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