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<下流老人 Life Wreck> キュウリ丼と人の死

 昼。飯を丼によそう。朝作っておいた納豆キュウリを冷蔵庫から出してきて、そこにジャバッとかける。これはキュウリを適当に刻んだところに、納豆と付属のタレ、めんつゆ、生卵を入れてかき混ぜたものだ。どこかのサイトに書いてあったのを真似したのだが、あらためて探してもどのサイトだったかたどり着けない。スマホでチラッと見ただけだったのだろう。朝に作っておいたのは少し寝かせておくとキュウリが馴染むという話だったからだ。
 見た目は悪い。はっきり言って下品だ。納豆もちょっと臭う。しかし、まあ悪くない。実は前に食べたときはもっと美味かった。今日はちょっとキュウリとめんつゆの量が足りない気がする。醤油を少し足してみる。計って作るわけではないので毎回こんなものだ。
 それにしても、キュウリにこんな食い方があるとは知らなかった。夏の暑いところに良く合っている。キュウリを食うとああ夏になったなと思う。
 夏の食い物にキュウリはどうしても欠かせない。冷やし中華であれ、冷麺であれ。しかしキュウリの足は速い。すぐにしなしなになって腐ってしまう。この何十年ぶりの物価高騰だ。キュウリを腐らすわけにはいかない。ということで、これもネットでキュウリの保存方法を探してみた。ペーパータオルなどで一本ずつくるみ、ポリ袋に入れて軽く閉じたら、冷蔵庫の野菜室に立てた状態で置いておくのだという。良く分からんがやってみた。まあ一応日持ちはするようだ。
 とは言っても、やはり早く消費したいので、このところ毎日キュウリを食っている。いつもだと醤油漬けにしたりピクルスもどきを作ったりするのだが、今回はなんとかワンパック三本のキュウリを全部生で使い切れそうだ。
 なんのかんの言って丼一杯を食い切った。テレビのニュースは暑さと豪雨災害の話題が続いている。次にコロナ開けで数年ぶりに博多山笠が開催されました、と。死人が出たそうだ。局によってだろうか。山笠開催の明るい話題を中心にするニュースと重大事故を中心にするニュースと番組によってはっきり分かれる。正解は無いだろうが、ぼくは事故と犠牲者の方が重要だと思う。そう言えば昨日は水を掛け合うのを売りにした音楽フェスの準備中に作業員が放水に打たれて亡くなるというニュースもあった。フェスは中止になった。
 同じひとりの人の死が、ある場所ではイベントの中止に、ある場所では開催を祝う話題の陰に置かれる。そこには誰かの価値観、誰かの判断がある。その誰かが圧倒的多数だったとき、少数派はどのように守られるのだろう。
 あまりにも速く消費されるニュースの流れの中で、もうひとりの死があった。ryuchell。彼(女)はなぜ死ななくてはならなかったのだろう。本当にネットの誹謗中傷に殺されたのだろうか。ぼくにはわからない。ryuchellを批判してきた人々にもちゃんとした理由があったと思いたい。そう思わないとこの死はあまりにも無意味なものになってしまう。それなら、なんでそうした批判の書き込みをした人々はそれを削除しているのだろう。それは自ら根拠のない誹謗中傷をしたと告白しているのと同じではないか。それはあんまりだろう。
 何にせよ、彼は死んだ。この社会の中には死なせてはいけない人がいる。ryuchellはこの、今の日本社会の中で、絶対に必要な人だった。多様性とか個性の尊重と言われる中で、本当にそれを体現している人は未だに少ない。そういう人を本当に尊重している人はもっと少ない。彼という唯一無二の個性は、存在自体がこの社会の未来へ向けた光だったような気がする。
 死なせてはいけない人を死なせてしまった責任は、誹謗中傷した者だけでは無く、それを許している社会、それを許している人々、否、こんな社会にしてしまったぼくにこそある。
 こんな社会にしてはいけない、こんな国にしてはいけないということは、もう五十年前から知っていた。知っていたから闘ったし、語ってもきた。しかし結局、ぼく(たち)に社会は変えられなかった。
 ぼくはあまりにも無力だ。
 納豆臭い丼を片付ける気にもならず、テレビを消して、汗だくのまま、ぼくはぼおっと黒い液晶画面を眺めた。

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