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<下流老人 Life Wreck> 冷やし中華と社会の多様性

 大分前のことだが、Amazonで一番安い中華麺を買った。単価は安いがパッケージはデカい。だいぶ食べでがある。乾麺だがこれが極細。太さはそうめんくらい。茹で時間も二分。はっきり言って美味くはない。
 初めは茹ですぎてしまったり、細すぎる麺に戸惑ったりしたが、これは豚骨ラーメンに合うと気づいた。まさにバリ固細麺だ。
 まあ豚骨の話はまた別の機会にするとして、今日は夏でもあるので冷やし中華にしよう。キュウリとハム、薄く焼いた卵焼きを千切りにする。タレは手作り。と言っても難しいことはしない。プラスチック製のワンカップの空き容器に、醤油、酢、砂糖、ごま油を入れてシャカシャカ振るだけだ。砂糖が溶けたようなら出来上がり。以前は火に掛けたりとかちゃんと作っていたが、どうせ自分で食べるだけだからこれで十分。調味料の割合も適当。気に入らなかったら食べるとき足せば良いだけ。
 麺を茹でて水にさらし、皿に盛って、キュウリ、ハム、卵、紅ショウガと多めの辛子を乗せる。そこにタレをかければ完成。
 ちなみに、このタレは別の見方をすればサラダドレッシングの一種と言える。ぼくはドレッシングもだいたい手作りするが、その基本は、サラダ油、酢、塩、砂糖、胡椒を混ぜるというもの。この各要素を別のものに置き換えれば、無限のバリエーションが可能となる。
 油分をオリーブ油やごま油にしたり、酸味を穀物酢や米酢にしたり、黒酢やバルサミコ酢を混ぜたり、マヨネーズにしてみたり、塩味を醤油や天然塩に、甘味を蜂蜜やケチャップに、さらに香辛料に様々なスパイスやカレー粉、唐辛子(チリ)、ジンジャー、ガーリック、マスタード、わさび、すりごま、おろしタマネギなどを使うことで、千差万別のドレッシングやソースを作ることが出来る。
 冷やし中華もパスタサラダの一種と考えれば良い。カロリーへの罪悪感も多少は和らぐ(ホントか?)。
 ただし手作りドレッシングの一番の問題はやり直しがきかないことだ。一度混ぜてしまえば、もう元の味に戻すことは出来ない。そうなれば、あとは別の味を足して調整するしかない。まあ、それもそれで楽しかったり、発見があったりするのだが。何にしても食って死ぬようなものではないので最終的に食えれば良い。実際はどういう食材にかけるのかによっても大分違ってくるだろう。
 ぼくが子供の頃、ニューヨークは人種のるつぼと言われていた。るつぼとは金属を溶かす容器のこと。それが何か同質化を思わせる、多様性を否定するニュアンスがあると言うので、そのうち人種のサラダボウルと呼ばれるようになった。
 しかしサラダも嫌いなものはよけたり、つまみ出したりすれば良いわけで、その意味ではちょっときれいすぎるニュアンスではある。実際の社会において嫌いな人間だからと言って避けたり排除したりするわけにはいかないし、そんなことをしていたら社会は崩壊してしまう。
 社会はどちらかと言えばドレッシングの方なのかもしれない。様々な素材を混ぜ合わせるとまさに水と油で、混じったようで混じり合わず、それぞれの味がそれぞれ主張し合う。そして一度そこに入ってしまえば、そこから特定の要素を取り除くことはまず不可能だ。だから味が良くないのであればそこに別の要素を足していくことで、調和するように調整していくしかない。その結果、意外な味の発見があり、オリジナルなドレッシングが完成していく。
 その努力を嫌がり、無理矢理に何かの味を排除しようとするから、無理に無理を重ねることになり、結局最後はぶちまけてしまうことになるのである。一度入り込んだ味を受け入れて、そこからよりよく調味していく以外の方法はないのである。
 もっとも、それをかける素地、素材が不味かったら、そもそもどんな味であっても不味い。ドレッシングを問題にする以前に、それをかける野菜や肉をちゃんとしたものにするべきで、もともとひどい素材をドレッシングの味で誤魔化すのは、どうしたって限界がある。ぼくたちはサラダが不味いのをドレッシングのせいにしがちだが、冷静にその食材を吟味してみなければいけない。
 いつも同じ食材を食べているから、なかなかよりよい素材というものに気がつかないが、世界の歴史を広くフラットな感覚で見直していけば、よりよいものが見つかるはずだ。その努力も必要。
 それで今日の冷やし中華のお味だが、やっぱり麺がイマイチで、結局美味いとは言えなかった。トホホである。

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