道は自ら、踏み固めて確かなものに。
どんなに綺麗に、歩みやすいように整備された道でも歩み出さないと意味はない。
習い事、趣味、仕事等、一歩歩み出せば良いのです。
道はあるのです。目の前に道は準備されていて、道に出たのにこの先何があるのだろうか?綺麗だけど、転んだら?歩くの疲れる等と歩み出す前から不安や、歩み出さない理由ばかり出してきて歩み出さない。
歩み出してみたら良い。人が歩み出した姿を見て、『この先何があるかわからないからやめな。』と止めるのか?それとも、見ているのか?
歩み出した人が、何か得た時だけ「良い顔してさすが!」と言うのか?
そう言う人は、その時には歩み出す事はしないだろう。
そして、歩み出した人はもう違う所にいます。
皆んな歩み出した後の先に得た結果しか見ない。結果をみて、自らもすぐに出来ると思っている。
先が見えない道。
そこに歩み出すなんてバカげている。その場所にいたらなんて事ないのに。その先は、道が綺麗な保証は何のに。
これは取り組みや、やりたい事のお話。
だから実際に道を歩んでいないし、歩んでスタートして隣の人は歩んでも隣にいる。
隣にいる人の変化なんて、結果を見てからしかわからない。
変化した姿をみて初めて知るんです。
先に何があるかわからないから歩み出さなかった。
結果をみてから、後発で歩み出してもいいのでは?
そうしたら、結果を見せている人は気持ちよく色々とお手伝いやアドバイス、サポートをしてくれるはず。
道は整備されても歩み出さない。
整備されてなくてもその道を歩み出す。
どっちが良いのだろうか。