仏教に学ぶ生き方、考え方「桜」
「桜」
今年も桜が満開になってきました。師走になり、いよいよ紅葉も散る季節ですが、自坊の境内にある冬桜は、見事に花を咲かせております。
冬桜は四季桜とも呼ばれ、一年に二回花を咲かせます。春には他の桜と同じように花をつけるのですが、花びらが少し小さく尖った形をしているので、それほど目立ちません。
もう一回は秋〜冬に向かう、この季節に二〜三ヶ月間、花を咲かせ続けます。
桜にまつわる仏教のお話として、真宗では親鸞聖人の出家の際のエピソードが有名です。
親鸞聖人は四歳で父親を、また八歳で母親を亡くされております。亡くなった両親が、どこに行かれているのかを考えると大きな不安が襲ってきたことでしょう。そのような世の中の無常をわずか八歳にして感じられたのです。
そのこと(後生の一大事)を解決するために、周囲の反対を押し切り出家を決意されます。そしてわずか九歳の時、京都の東山におられた比叡山の座主であられた慈鎮和尚(じちんかしょう)を訪ねられ、比叡山の修行僧として出家を願い出ます。
慈鎮和尚はこの心意気に感心されましたが、もう夜になりあたりも暗くなっていたので、明朝、明るくなってから出家の儀式を執り行おうとされました。
その時に、親鸞聖人は近くの桜の木をご覧になられて、「明日ありと思う心の仇桜、夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」と謳われたということです。
「今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していても、夜の間に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」という意味ですが、親鸞聖人は、自分の命を桜の花びらに喩え、「明日自分の命があるかどうか分からない、そういう無常の世界だからこそ今この時を精一杯大事に生きていきたい」との思いが込められている歌ですよね。とても考えさせられるお話です。
また江戸時代の曹洞宗の僧侶で、歌人でもあった良寛和尚の辞世の句には「散る桜 残る桜も散る桜」というものがあります。
これは世の中の無常を感じる一句ですが、それと同時に、「この世に生を受けたものは、みな等しく無常の波の中にいるのだ」とも捉えられます。
よく亡くなられた方を悲しまれたり悔やまれたりしますが、そういう自分自身もやがては散っていく花びらのひとつなのですよ、と言われているのですね。
今まで生きてきた人生の経験から、ついつい自分は花びらではなく、枝や幹のようにこれからもずっと続くと思ってしまうものです。死というものをどこか他人事にしてしまっているなと反省させられる歌です。
こういうことを思い浮かべながら桜を眺めていると、また違った心情が湧き上がってきます。桜の花びら一枚一枚からも人生を学ぼうとする、そういう心意気を仏教に感じさせていただけることはありがたいと思っています。
☆今日の一句☆
散る桜
私もあなたも
一緒です