仏教に学ぶ生き方、考え方「分かると解る?!」
江戸時代の寺子屋の勉強法に素読(そどく)という勉強法があるそうです。これはいろいろな文章や漢文など意味は分からないままに音読を繰り返し覚えていく勉強法です。
意味が分からないから意味がないように思えるかもしれません。しかし分からないままに覚えることで、将来成長していろいろな経験を積むことでその意味を見つめ直し、気づきながら理解を深めていくそうです。
お寺に生まれた私は小さい頃、祖父について朝夕、文類さんや正信偈、重誓偈など聞きながら一緒に読んでいました。意味なんて教えてくれましんし、聞いてもわからないだろうなと思っていたので聞こうともせず、、、。ただ、広い御堂に二人でお勤めをする声が響いていました。
お勤めが終わると、祖父がニコニコしながら声をかけてくれます。そしてソファに座って楽しく談笑するひとときが好きでした。
私が中学生のとき、祖父は大往生を遂げ、それから高校、大学、社会人と、ほとんどお勤めをすることなく過ごしましたが、現在はあの頃のように毎日のお勤めが日課になっています。
ではあの頃分からなかったお経の意味が解るようになったのかというと、やっぱりほとんどわかりません。でも所々解釈を聞いたり、読んだりしているうちにそういうことなのかと解ったときは、お経の方からグッと近づいてきてくれるような感覚になります。
その時の嬉しさは大きいものがあり、法要の後、御同行様にさっそく話してみたり、こうやって文章に残したりしています。
親鸞聖人は難解で膨大な量のお経を、「教行信証」という要約された偈文に書き表し、しかも節をつけて読みやすくしてくださいました。
そして更に和讃という形でもわかりやすく解釈をしてくれたのです。また御同行様とのやり取りのために記されたお手紙も「御書」(御文章)としてまとめていただいてあります。
それらを意味がわからないながらも毎日声を出して読んでいくことで、いつか理解できるように示してくださったのかな?そう思うとこうやって毎日お唱えすることは意味深くとてもありがたいことだと感じています。
☆今日の一句☆
読んでいこう
偈文があなたに
寄り添うよ