一日ホームレス
目覚めると妻が出勤支度をしていた。上半身を起こして時計を見ると、出勤時間になっていた。空腹であることに気づき、妻に待ってもらって一緒に家を出た。
外に出ると意外に暑くなかったが、夏の湿気が瞬く間に肌に張り付いた。空には少しだけ綿雲が浮かんでいた。予報では日中は快晴になるはずだ。今日も暑くなる。
急いで出てきたので、寝起きのまま、デニムの半ズボンにポロシャツ、髭も剃っておらず、歯磨きもしてこなかった。コンビニで朝食を買うだけだからいいか、とそれほど気にしなかった。
妻が荷物をくくりおわり、マンションの駐輪場を後にした。
土曜の朝七時前の住宅地は通勤ラッシュも始まっておらず、穏やかだった。
短いというより、ほぼなかった梅雨のために初夏から連日暑く、少し疲れていた。だから今日は家でゆっくりして過ごすつもりだった。とはいうものの、自分の担当の家事、洗濯などはするつもりだった。
狭い路地の交差点で妻と別れた。こういう場合決まって聞く。
「今日、何時に帰る」
「六時」
妻が答えた。
互いに手を振って、別れた。
コンビニには多くの商品があるが、特に食べ物はいつも同じようなものを食う。だが今朝はなぜか気に入らず、目移りしてしまった。十五分くらい店にいたと思う。かなり変則的な組み合わせの朝食をレジに持っていった。店員はいつもこの時間帯に働く中年の男で髪を短くしていた。
支払いのときに「温めますか」と聞かれ、いつもは断わる。帰るまでに、買ってもらったものが冷めるからだ。今朝は「お願いします」と応えた。今日は冷めないだろう。明らかに店員は戸惑った。店員は肝臓が悪いのかも知れない。男は黄味がかった眼をしていた。
温めてもらう間に会計をしようと財布を取り出した。Tポイントカードにポイントを付けてもらい、その間に 千円札を出し、小銭入れを開けた。
――あれ、ない。
半ズボンのポケットをまさぐってもやはりない。小銭入れにあるべきものがない。
温め終わった総菜の入ったレジ袋を店員は差し出した。袋の取っ手の部分はクルクルと捩ってあった。私の顔を見たいつもの店員は怪訝な表情をした。焦った表情を取り繕って、袋を受け取り、コンビニを後にした。
なんてこった! 家の鍵を置いてきちまった。
いまから追いかけて妻から鍵を借りねばならない。
クロスバイクをかっ飛ばして職場まで向かう。
どうしてコンビニでもたついてしまったのか。いつものメニューをパッと買えれば、すぐに追いかけられたのに。そうすれば妻はママチャリだ。追いつける可能性は高い。
バス通りを全力で走る。
自宅から妻の職場までは自転車で三十分くらい。コンビニからだと二十分強ってところだ。自転車で大通りを渡る。土曜の通りは空いていた。かなりすっとばして、目的地に到着した。
駐輪場の建物は敷地の外、歩道わきにあった。ただ、正面に壁があって、回り込まないと内側はのぞけない。周囲に人がいたら、とんでもなく怪しまれるので注意しながら中を覗いた。妻の自転車はすでに駐輪場にあった。つまり、職場のなかに居るはずだが、こんなときに限ってスマホを持っていなかった。すぐ目の前のコンビニの前に公衆電話があるのだが、妻の携帯は公衆電話からの通話を切っているはずだ。私が設定したのでよく憶えている。それに妻の携帯は知らない番号からかかってくると、番号が表示されず、応答もできなかった。
気温が徐々に上昇しているのが分かった。寝るときに適当に着た古着のポロシャツは褪色していて、そこに汗染みが広がり始めていた。
自転車のハンドルにはコンビニで買った朝食の入ったビニール袋が下がっていた。
とりあえずこの場から、朝食が食べられそうな所に行こうと思った。
自転車で少し移動すると、春先には桜で有名な公園がある。そこへ行こうと思った。
川沿いの細長い公園は誰も居なかった。道沿いに並ぶ桜はすっかり深い緑の葉に覆われていた。汗染みを見たら、急に着の身着のまま出てきた自分が恥ずかしくなった。桜並木の下に小さな遊び場があって、丸いコンクリートの椅子が並んでいた。隣の椅子にコンビニの袋を置いた。反対の椅子をテーブルにした。それにしても、温めてもらってよかった。
買ったものを急いで食べていると、後ろで都会の貧相な蝉の声がした。今年初めての蝉の声だった。少し情けなくなった。
食べ終わったあと、とにかくタオルがほしくなった。できれば着替えもほしかった。人並みの格好になれば、恥ずかしいという感覚からは逃れられると思ったのだ。
財布のなかには三万円くらいある。さっきコンビニで買い物をしたときに、財布のなかに三枚、紙幣があったと思う。
食べ終わったゴミをまとめて、近くのコンビニまで移動した。
とりあえず棚にあったタオルを掴んだ。食べ物はとりあえず良いだろう。レジに行って、財布からお金を出そうとして再び驚いた。三枚あると思っていた紙幣は、すべて千円札だった。レジにいたのは、会ったことのない中年女性のパートさんだった。「やっぱりいいです」とタオル購入をキャンセルするのをためらってしまった。ひどい格好で、財布の中身をみてからキャンセルしたら、「ああ、大変なんだろうな」と思われそうで、見栄を張ってしまった。
購入したタオルをビニール袋から出しながら、情けない気分になった。
さて、これから何をすべきか。
自転車で台地のすぐそばをブラブラしながら、これから夕方まで何をするかを考えた。脇にはコンクリートで固められた川が流れている。夏の太陽を反射して、川面はきらめいていた。朝にあった綿雲は切れて、夏の晴天になった。並木の影の切れ間に来ると、直射日光が容赦なく頭を焦がした。自転車でゆっくり走っていると、地熱が立ち上がってくる。脇を流れる川のなかには誰が放流したのか分からない錦鯉が気怠そうに泳いでいる。
台地の際の辺りまで来たら、上から声援が降ってきた。思わず見上げた。台地は緑に覆われている。そうか、台地の上には野球場がある。野球場では今頃、高校野球の予選が行われているはずだ。
今の状況自体がイレギュラーな状態だ。
せっかくなら普段やらないことをやろう。
そう決めた。
台地の上へ行くと、声援がはっきりと聞こえた。目の前に球場が見えた。球場の駐輪場にクロスバイクを停めた。厳重に「地球ロック」をした。
球場の脇を歩くと高い塀があった。塀は緑に塗られている。塀に沿って、時計回りに移動するとチケット売り場があった。やっぱり無料ではないよな、と落胆した。チケット売り場には小さなガラス戸があって売り子さんがいた。ガラス戸の上を確認したら、一般の料金は六百円だった。千六百円とかだったらどうしようと思っていたので、ほっとした。
「一般一枚」と声をかける。なかには女子高校生がいた。ボランティアの高校生だろう。お金を支払って、入り口へと進む。入り口では「いらっしゃいませ」と声をかけ、もぎりの男子高校生がチケットの端を切る。階段を上がり、スタンドのエントランスまで行く。スタンドには多くの席に客がいた。地方の球場のスタンドは、一塁側と三塁側とネット裏に椅子があり、外野は芝生があるだけだった。
どうしてこんなに客が入っているんだ、と試合をしている高校名を、電光掲示板で確認した。地元でも古豪の高校と、その高校に比べれば新興の高校だった。今は三回の裏だった。
椅子席の上の方にしか屋根がなく埋まっていた。これは熱中症になる、とまずトイレに行って買ったタオルを濡らした。これを首に巻き、顔を拭くと気化熱で体温が下がる。
一塁側や三塁側の席だと応援しているようなので、バックネットに近い辺りに座った。座った後に、横と後ろの男が古豪の高校の色、緑のメガホンを持っていることに気づいた。後ろの男はビール臭かった。
グラウンドを見ると、試合前に砂埃が舞うのを抑えたかったのだろう、内野の土の部分に水がまかれていた。気温は三十度以上、体感は三十五度以上だ。大量にまかれた水が蒸発しているのがわかる。蒸発した湯気が立っていて、蜃気楼のように景色がゆらゆらしていた。
試合は新興の攻撃だった。
点数は古豪が一点負けていた。
新興の先頭打者がいきなり出塁した。三塁側の応援に熱が入る。応援席の一番下で曲名と選手名をプラカードで出していた。スタンドは応援カラーであるオレンジで埋まっている。一番に戻り、送りバントをした。私の両側の男たちがピリピリしているのが分かる。送りバントでワンアウト。周囲の皆が盛り上がった。そうか、バックネットは中立地帯という、プロ野球の常識は通じない。バックネットの中央で別れて、両校の応援がほとんどなのだ。二番の選手は一、二塁間を抜くヒット。三番はフォア・ボール。周囲がピリつくのが分かる。おそらく古豪のOBがたくさん詰めかけているのかもしれない。それくらい、県予選屈指の好カードなのである。私は古豪を応援しないといけない気がしてしまった。
次の打者は再び、フォア・ボールになり、押し出しになった。ベンチが何を考えているのかは分からなかったが、ピッチャーの交代はしなかった。後ろの酔っ払いが、「オイオイオイ」と大きな声で言った。前の方で、ジジイが高校生相手にガンガンやじっていた。ようやく二人目を打ち取った。その次の打者は一、二塁間を抜き、四点目を取った。七番打者は初球をとらえ、レフトにヒット。五点目だ。なんとなく、私は他の応援者と一緒になり、苦々しい気分になってきた。八番打者は三遊間を抜くヒット。
ここまで来て古豪のベンチはピッチャーにウォーミングアップを命じた。今更かよー、と思わず私も小さな声でやじってしまう。
次の選手がフライを上げて、やっとスリーアウトになった。
四回の表、古豪の攻撃になる。応援の曲が流れる。思わず手を叩いて一緒に応援してしまう。ゴダイゴのスリーナインがかかる。ツーアウト一塁、二塁。得点チャンスになり、複雑なドラミングの曲が応援席から流れ出す。チアガールも対岸に比べて統制が取れていた。この曲が新興のピッチャーの心を乱したのか満塁になった。その曲は替え歌ではなく、古豪学校オリジナルの曲だった。こういうオリジナルの曲が意外と相手を揺さぶるのである。古豪は六番打者。フルカウントから詰まってスリーアウトになってしまった。
四回の裏、五回の表は三者凡退。五回の裏、新興の攻撃だ。
前には小さな姉と弟の兄弟を連れた父親が座っていた。子ども用に買った焼きそばもあった。父親は試合に夢中だった。やはりOBなのかもしれない。横からおばあさんがやってきて、弟の方に声をかけた。
「お兄ちゃん、上の日陰で休む?」
と言っているのを聞いて見るとおかっぱ頭の弟は鼻を垂らし、口から泡を吹いていた。恥ずかしながら、目の前にいたのに気がつかなかった。たぶん、こういうことに対処するために、古豪の保護者さんが警戒しているのだろう。弟は上に連れていかれた。もう一人保護者らしき女性がやってきて、「お姉ちゃんもあっちに行こう」と声をかけられ、連れていかれた。父親は我関せずといった感じで試合を見続けていた。父親の後頭部は薄くなっていた。
ハプニングに気をとられているうちに、試合では新興が三点を追加し、八対〇になった。規定では七回終わりに七点差がつくとコールド負けになってしまう。
その回の失点をなんとか三点に抑えた。
六回の表、古豪の攻撃回、先頭打者はピッチャーだった。
責任を感じているだろうピッチャーは、初球から思い切り振っていった。球はピッチャーミットに収まった。二球目は見逃した。三球目を思い切り振った。バットにはじき返されたボールは、蒼天に吸い込まれた。ホームランである。古豪の応援席は信じられないくらい盛り上がった。ピッチャーはベースを一周する間、笑顔ではなく、苦々しい顔をしていた。
反撃はそれで終わった。
六回の裏、ピッチャーは別の選手だった。
そのまま試合はコールドで終わった。
応援席は落胆した。
新興の高校は勝者として校歌を斉唱した。もちろん、応援席も一緒に歌った。敗者である古豪の高校の選手はベンチの前に整列して校歌を聞いていた。なんとも残酷な光景だった。
電光掲示板の時計を見ると、まだ昼過ぎだった。
これからどうしようと途方にくれた。
ーー了ーー(四九七〇文字)