第二回短編小説の集い(note版)応募作「割れそうな卵の扱い方」振り返り

今回の作品です。

今回は一度徹底的に振り返ります。

この物語の発想は、前作である「さよならの決意」から発想しました。とはいうものの、決して連作ではなく、それぞれが独立の作品になっています。キャラクターを固定することで、人物描写も育てているわけです。だから、色々な世代の人間を出しています。

前作でシホ&コウスケのコンビを出したからには、ケンジ&シンイチも出さねばならないという発想をしました。

ただ、その前にまったくの新作も同時に頭に浮かんでいました。

それは「龍の卵を拾ってしまった妹と、その兄の話」です。和洋折衷の面白いファンタジーを書こうと考えましたが、それは却下。というのは取材がしたかったからです。

ケンジ&シンイチコンビの話を出すのであれば、お題である「卵」をどう規定しようか、というのがテーマになりました。

龍の卵同様、本当の卵を扱っても良いし、少しひねっても良い。四月のテーマであることを合わせれば、主催者様は「ルーキー」の卵というのを使っても良いと考えているはず。蛙の卵だってそろそろ産み落とされる。文字通り、卵から生まれたてのあかちゃんでもよい。発想としては広がりがありました。

ただ、学習塾をやっているケンジとシンイチを出すのであれば、やはりルーキーだろうと思いました。

龍の卵と同じで、座敷で腕組みをして正座している男と、その前で話す二人の若者の姿が頭に浮かびました。

私の流儀で唯一の正解ではないと思いますが、テーマを見たときにすっとシーンが頭に浮かびます。このイメージを大事に膨らませていきます。もちろん、そこから場面設定に必要な場所を訪れたときには、完璧にイメージ通りでないときも多々あります。そこはその場所に合わせてイメージを修正していきます。

このイメージがないときには、言葉をこねて物語を作らなければならず、こうなるととても膨らませていくのが大変です。が、しょせん言葉で作った理屈なので、書くのは非常に楽です。

一応書くと、イメージから書く場合でも私の場合、展開は二つが限度です。文字数に限度があるので。一番最初にこの企画に参加したときは、一枚の風景画を作ろうというのが目標でした。とても綺麗で、目を奪われるような景色を作る。それをやると、展開をさせるのが難しくなるのです。

この企画のわたくしのスタンスとして、この企画に便乗してどこかに出かけるというのも行ってきました。体調があまり完全とはいえなく、あまり外出していなかったので、この機会にどこかにでかけようと思いました。

なにを目的にするかというと、ケンジの家のレイアウトを変えてしまうということでした。ケンジの実家は農家をイメージしています。このイメージを一回突き詰めてみようと画策しました。どこかの農家を実際に見てきて、ディテールを書き込んでみよう、と。

本当はサイクリングがてら、近場の富農の家を訪れたかったのですが、イメージ通りの家がありませんでした。

そこで、成田にある「千葉県立房総のむら」という施設に行ってきました。そこには、安房、上総、下総とそれぞれの農家の建物や、香取市にあった商家の町並みなどが作られています。商家では映画なども撮られているそうです。

体験博物館 千葉県立房総のむら

そのうち、上総の農家の一室やその周辺の景色を参考にケンジの家と塾のイメージを作りました。

ただし、このイメージは今後変更するかもしれません。その辺りは気まぐれでやります。

別途書こうと思いますが、「房総のむら」はとても楽しかった。癒やしの空間です。

物語ですが、イメージを大切にしつつ、彼らは何を話しているのかを考えました。

そして「ケンジにとって、彼らになにをされるのが一番嫌か」を想像しました。塾を経営しているのですから、「塾を辞める」と言われるのが一番嫌なはずです。

それに、「評判の良い他の塾に行くから」など、身もふたもない理由であればあきらめもつくわけですが、「貧乏でお金が出せません」という理由はいやだろうなあと思いました。

彼らは今は公立の中学校に通っているわけです。

シンイチは過去、私立の名門中高一貫の中学校に通っていたという設定です。頭がいい中学生を造形しなければ、シンイチの第一人称で書いた場合にさすがにギャップが出てしまうからそうしました。それでもギャップがあると主催者様のご指摘を受けてしまいました。

工夫するか、今のままにするか、迷っています。確かに、繊細に周囲を見る視点をもっていても、それを言語化するというのは高度な技術が要ります。中学生には無理とみるか。作家によっては、「その点は無視しても良し」という人もいます。ただ、読み手が違和感を感じてしまう以上、なんとかすべきか。それとも、「シンイチはこういう人間だ」という感じで一点突破すべきか。

三島由紀夫は小学生のときにすでに恐ろしい小説をかいていたようですが、三島由紀夫ですからね。先生に「平岡(本名)くんは特別だから」と言われてしまう人でした。だから、絶対にありえない訳ではない。ただの言い訳です。三島ですから。

リョウに関しても触れておきましょう。今回は「周囲の大人の視点」を描いている訳で、それこそ語り手であるコウスケから見て、あけすけにリョウの心理がわかってしまうと、それはそれで矛盾になってしまいます。年齢に関係なく、他人の心情を完璧にはかることは不可能なのです。あと、今回は特別指摘してしまいますが、とても繊細な方法で、リョウの状況への心理や葛藤は書いているのですよ。

実は今回は、ケンジのお母さんが「なんとかしちゃいな」と言うことにクレームが来ると覚悟していました。「無責任なこと書くな」とか。おしかりが来るかと。いやあ、小説を書くというのは面白い。意外なことが起きます。

今回は「小説くらいおとぎ話で良いじゃん」という気持ちがこもっています。

「子どもの貧困について記述が少ない」など、主催者さまの心理にさざ波を立てた段階で小説としては成功なのではないかと自らを慰めています。ぐすん。

読み手の心を動かしたいですからね。

実際の貧困の子どもの心理を書くかどうかは決めていません。ただし、一般に言われているような心理状態ではないと思うので主催者さまのおっしゃるとおり、一筋縄ではいかないでしょうね。

実際はね、カオスです。ある意味、結構な大人よりも大人だし。幼児よりも欲求にストレートだし。若者だから、子どもとも限らないのです。必要が人を育てます。(悲しいけど)。大人として行動することを要求されることで、実年齢と関係なくタフになってしまう子どもというのはいくらでも存在します。もちろん、わたくしの話ではないです。これも悲しいけど、大人は誰も助けてくれないからね。

加えてちぐはぐな幼稚性をもつ、という描くにはやっかいな存在です。

本当はその辺りをシンイチに込めた作品が名作(自画自賛)「九月一日」なのです。周囲を伺いながら生きるという繊細さを持ちつつも、突発的な暴力性を併せ持つ。そんな厄介な子どもとしてシンイチを登場させます。ただ、居場所や理解者が現れることで、かなりそんな感情が緩和されるはずです。精神的に余裕が出来ることで、その後の生活も変化していくのです。

「そんな単純じゃない」? そうでもない。そういう矛盾が若者にはあるのです。だから、やくざさんなどがなくならない。暴力団は、鬱屈した若者や差別を受けている人間の受け皿になっているという側面もありますから。警察が徹底的に撲滅をしないのもそういう理由があるからかもしれません。彼らへの同情ではなくてね。

以前尾木ママが「母子家庭や父子家庭の子はやさしい」と言っていました。表面は明鏡止水なのです。この人って本当にわかってないですよね。

話が飛びました。

公立の先生なら、その地元出身とは限らず、というよりほとんどの先生が地元出身ではないわけです。だから、地縁のない先生ならば、かなりドライになります。ケンジは地縁のある塾の先生です。お母さんの一言にそれは込めてあります。顔を見ただけで「ああ、あそこの子ね」とわかってしまう位置にケンジはいるわけです。

責任があるといえば思い上がり、郷土愛といえば大げさ。なんというか、辞めると言われれば本当に「忸怩たる思い」がなぜか沸いてしまうような、そんな人として書いてみました。今回は対称的にコウスケは無責任というか、一般的な大人の姿です。これも「今回は」という限定付きです。

確かにおとぎ話です。いい人は金持ちになれません。でもそういう篤志家がいてもいいじゃない。「情弱だ」とか切り捨てないで。そういう人がいても良い。

こういう設定で書いています。

今回はかなり分析的に書いていますが、書いていて思ったのは、これらの設定をかなり勘だけで扱っているのが、「すげえなオレ」、と思ってしまいます。(誰も褒めてくれないので自分で褒めます。カミさんも褒めてくれない)コウスケをこうしようとかそのときの直感だもんね。だから、書く前は不安で仕方ないです。今回は特に立ち止まることが多く、書くのが苦しかったです。

短編小説は短文で書きたいことをそっと書くという、上級の技術が必要です。とても勉強になります。

次回は「鏡」。今回も二つ浮かんでいるのです。場面と言葉の設定。どちらにするか。

※本当はこの辺りの言い訳じみたことを言わないで、作品で表現できなければならないのですが、一回徹底的に書いてみようと思って書きました。

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