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冷徹な祭壇:死者の願いと猟奇の背後

 白壁に手をつきながら鉄製のタラップを登ってゆく。四〇代になりたてのころ仕事で腰を痛めてから騙し騙しやってきたが、季節の変わり目、特に今日のように晩秋で急激に気温が下がった日は、古傷がぶり返す。しくしく痛むのである。
 白壁についた手を離すと手形が残っていた。掌を見ると、灰色に汚れていた。「クソッ」と内心悪態をついて、舌打ちをした。アパートのコンクリートの外通路を歩く。手摺りには黄色いテープが張られていた。通路から鉄道が見えた。ここは撮り鉄にとって、名所らしい。
現場は四つ並ぶ部屋の奥から二番目だった。ドアは開け放たれ、青い作業着の人間が頻繁に出入りしている。鑑識である。科捜研も出張ってきているだろう。
 痛む腰を叩きながら部屋に入る。すれ違う鑑識が挨拶をしてくる。それに右手を挙げて応える。
「ウッくせえな」
 手の甲を鼻に当てる。夏場のホームレスのような、強烈な生き物の内臓のような、そんな臭いが鼻に入ってくる。だが、すぐに意識しなくなった。濃く漂っているのではなく、壁紙や布地に染み付いているのだろう。
小さな玄関を跨いで入ると、暗い色のフローリングの六畳間にはほとんど物がなかった。青い色のクーラーボックスが部屋の中央に横二列になって並んでいた。列はそれぞれ四つずつ、部屋の外れに一個だけのけ者のように置かれている。
 「柴田さん」
 追いついてきた新人の迫田が声をかける。今回の事件、柴田は迫田の教育係だ。
 迫田は練習もかねて現場にいる同僚たちと情報を共有し、また周辺住民から聞き込んだ情報を整理し、柴田に報告することになっている。だが、現場に入る前に大体概要は知っているから、聞く必要はない。関係者の、興奮しきって要領を得ない話を丹念に聞く胆力は、五年前に切れてしまった。それを新人に押しつけた。あと五年で定年である。
 「どうです柴田さん」
 「いやまた整体に行かなきゃなんねえな」
 部屋に入ると台所が玄関の左側、右にはユニットバスらしいドアがあった。その向こうに歩いて行くと右手の壁際に小さな座卓があり、ノートパソコンが載っていた。それから様々なことを想像したくて、迫田の報告を聞き流した。こんなときに情報が入ってきても処理できない。
 犯人はSNSを使って、自殺志願の被害者と連絡を取っていた。柴田自身はSNSなんてやらないのでわからない。このパソコンでやり取りしていたのだろうか。
 「なあ、奴さん、これで何をしてたんだと思う」
 後ろでメモを書いたノートを片手に立っている迫田をチラリと見て聞いた。報告は中断された。迫田は触らないようにノートパソコンを様々な角度から見た。
 「・・・・・・そうですね。
 たぶんゲーミングPCではないし、普通のメーカーパソコンでしょう。エントリーモデルかな。動画の編集をするようなハイスペックなものじゃない。エロ動画見て、写真ちょっとイジって、SNSやって、そんなとこでしょう」
こういうところに変質的なところは見受けられないということか。
 「やっぱりこういう感じのパソコンの男って普通だと思うか」
 「“普通”にもよりますが、ありふれてるでしょうね。ただし外からの、見かけの話ですよ。このなかにロリコンの写真がわんさか入ってれば変態野郎ってことになりますから」
 なるほどね――と生返事しながら、柴田の脳はある光景に埋められていた。
 それは犯人が拘置所に護送されるところをテレビカメラが押さえたシーンだ。警察側がマスコミにわざと撮らせているものだ。
 犯人は護送車の後部で必死に顔を隠していた。その光景が柴田のなかの犯人像を変えた。
 事件の概要を聞いたとき、「まず裁判まで行くのは無理だろう」と断じていた。だがその光景で犯人がしていた所作、顔を隠すという行為は羞恥心を持っているからする行為で、現状を理解している上での行動だ。それを見て、これまでの猟奇的な事件と何かが違うという予感がした。
 現に犯人は昨日逮捕されてから、取り調べ自体には素直に応じ、犯行についても素直に自供しているらしい。
 ノートパソコンの置かれた右の壁から、左の壁に視線を移した。
 「なんじゃこりゃ」
 左右にまっすぐ並んだクーラーボックスの先、壁際に奇怪な物が載った棚があった。
 「祭壇か?」
 柴田が頓狂な声をあげた。
 「やっぱり祭壇ですかね」
 横合いから青い鑑識チームの服を着た女性が柴田に話しかけた。弘法寺という女性鑑識だ。
 「実はこれが警察が入ったときの部屋の様子です」
 一枚目の写真は今柴田が立っているのと同じ角度になっている。奥に祭壇、手前にはクーラーボックスの列がある。今の様子と違うのはクーラーボックスの上に生首らしき物が一つずつ載っていることだ。それぞれ生首は向き合うように並んでいる。生首はさまざまな髪の長さの・・・・・・。
 「女の生首か」
 写真を覗き込んだ迫田が「うっ」といって嘔吐いた。
 「おそらく殺害されたのが早いほうが祭壇に近いクーラーボックスだと思われます」
 「損壊具合が酷いのか」
 「そうです。これがそれぞれの生首の写真です」
 事務封筒から拡大された写真を弘法寺が取り出して、柴田に手渡した。横から生首のドアップを覗き込んだ迫田が、“ゲッ”と喉を鳴らして、部屋から飛び出していった。
 「あいつ、現場初めてか」
 飛び出ていったドアを横目で見て柴田が言った。が、視線はすぐに写真に戻った。
 「それが一番祭壇の近くのホトケさんです。もうほぼ白骨化してます。殺害した後、バラバラにして、首だけ残して遺棄したようです」
 「どこでバラしたの」
 供述では――と言いながら弘法寺はユニットバスを指さした。
 遺棄の方法は様々考えられた。生ゴミとして棄てたか、水洗トイレに少しずつ流したか。それにしても二ヶ月で九人だと考えれば気づかれるリスクは高い。
 「臭いの処理は猫のトイレ用の砂を使っていたらしいです。そんなもので完全に取れるわけないですけどね」
 だろうな、と思いながら崩れかけた生首の写真を見ていた。鼻の奥で部屋に入ってきたときの臭いがよみがえった。
 「他の住民は気づかなかったのか」
 「隣の住人、三〇代男性ですけど、『自分はお香を焚くのが趣味なので気づかなかった』だそうです」
 「それって・・・・・・」
 大麻などの匂いを消す、常套手段だ。面倒な仕事を増えそうなので、聞かなかったことにした。
 「奴さん完落ちしそうなんだろ」と柴田が聞く。
 「そうらしいです」と言う声を聞き、柴田たちが振り返ると、迫田が立っていた。迫田は鳩尾の辺りをさすっていた。もともとヒョロヒョロとして背の高い男だが、青白い顔をしていると、さらに身体が細長くなったように錯覚してしまう。
 「もうケロッとして話をするんだそうですよ。ホトケさんの身元もすぐに割れるんじゃないですかね」
 「全員の身内が名乗り出ればな」
 迫田は眉をひそめた。「そんなことが・・・・・・」
 「あるだろうな。家族だからってみんながみんな、仲が良いわけじゃない。そんなのは迷信だよ」
 この仕事についてそんなのばっかり見せられ、聞かされてきた。仲のよい家族の方が奇跡であって、ほとんどがそうじゃない。そんな気すらしてくる。口に出して若者に妙な達観をさせる趣味はないから言わないが、心中そう思っていた。
 「お前もう上がっても良いぞ」
 と言うと、迫田は手を上げて制し、軽く会釈した。「いやお気遣いいただかなくて結構。どうもすいません」とでも言いたいのだろう。
 「それにしても問題はこれだよな」
 鑑識チームが撤収を始めた。「私もこれで」弘法寺も挨拶しに来た。写真は借り受けた。
 「私の推測ですが」
 と二人だけになってから迫田は祭壇を見て語り始めた。
 「これって、ラザロじゃないですかね」
 「ラザロ?」
 「ええ。ラザロってイエスの友人でして。死んじゃうんですよ。死の報せを聞いてイエスがやってきてね。『ラザロ、起きなさい』って墓の前で言うんです。すると、ラザロは布にくるまって墓の土の下から這い出てくるんです」
 「ということは、キリスト教の話か。カルトじゃないか。それにしても、よく知ってるな」
 「一応、高校がミッション系だったんで。定期的にこの手の話は聞かされました。
 別の話もありましてね。そちらではラザロは皮膚病――らい病――を負った乞食なんです。ラザロはさる金持ちの家の前でぱたっと倒れるんです。
けれども金持ちは施しをしなかったんです。
 やがて二人とも死ぬ。ラザロは天国にいけるけど、その強欲な金持ちは神に嫌われるというやつです」
 ふうむ、と柴田はうなる。
 「この両方に松葉杖をついているのがたぶんそうだなあ。纏っている布が復活の時の布になるんだと思うなあ」
と祭壇にある彫像を丹念に眺めながら独り言のように呟いた。
 柴田は例の写真を封筒から再度引っ張り出した。
 「すると・・・・・・。
 ああそうか、この生首の下に敷いてある布・・・・・・。あのラザロの布と同じか」
 ラザロの像は白い絹のマントを羽織っていた。横から迫田も恐る恐る写真を覗き込む。
 「奴さん、この死体が復活すると思ってたのか」
 「もう一歩先かもしれません」
 部屋に入ったときは昼下がりであったのにもう夕暮れ、夕日が沈む瞬間が来た。弱々しい晩秋の太陽の前に衝立でも置いたように、部屋は影に沈んだ。室温が心持ち下がった気がする。黒いブロンズのラザロが鈍く光っていた。
 「奴さん動機を言わないらしいな」
 動機とは社会を納得させるためのツールだ。柴田自身はそんなことをしたことはないが、警察側が誘導して勝手に作ることもあるらしい。容疑者の主張が支離滅裂なときはそうする。様々な犯人が「人を殺してみたかった」など同じ動機になるとき、一部は警察が手を加えたものということだ。全部ではない。ただ、それを聞いて社会は安定する。動機というのは大切だ。動機があると、理不尽でも社会はそれを理解できるようになる。
 「ええ。もしかすると容疑者は言ってるのかもしれません。理解できていないだけで」
 「じゃあここは死者復活のための祭壇か」
 柴田は周囲を見回して鳥肌を立てた。
 「いやあ。奴だって死んだら生き返らないことくらい理解していたでしょう。
 そうではなくて、自分のした行為で、死者は天国に行けると思っているんです」
 「そうか奴はSNSで死にたがってる女を漁ってたんだもんな」
 「そう。死者は死にたいくらいつらい思いをしています。行き倒れたラザロと一緒です。そういう人間は殺してやれば良いんです」
 「何を言ってんだ、お前は。さっき吐いてたくせに」
 「ラザロは金持ちから食事をもらいたかったのです。女たちは殺してもらいたかったのです。救うのは当たり前の行為です。奴はイカレていると判断されるでしょうが、実に正気なのです。それで自分も救われると思っている」
 馬鹿が、と柴田は内心で否定したかった。
 これが今の若者の感覚なのだろうか、とも思った。苦難があったら、もう少しあがいてもいいし、他人に助けを求めたっていいんだ。苦難を取り除くことこそが「救い」なのだ。そう思った。
 だが同時に気づいてしまった。どうあがいても除けない苦難なら? 社会的に孤立していて助けを求める人がいないなら? みんなわかっている。自治体などが相談窓口を設けていても話を聞いてくれるだけ。借金の肩代わりはしない。酒乱のオヤジは直せない。殺してもくれない。病苦は除けない。代わりに病気になってくれるわけでもない。応援なら好きな音楽を聞けば良い。おためごかしを聞くよりマシだ。よっぽど心が安まる。努力で解決できない問題だってある。
 そんな絶望を負っている人がいたなら?
 いっそ殺した方が親切なのではないか。
 確実に天国に行けるのなら。
 柴田は頭を振って余念を打ち消した。
 ここは以前も自殺のあった、いわゆる事故物件だ。
 もしかすると“場”に引きずられたのかもしれない。いくつもの凶行現場でそんな経験をした。経験がそう言っていた。
 「さあ行こう」迫田を促して部屋を後にした。
――了――
(四八〇八文字)

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